キセキのチェンジアップ天皇賞 「競馬巴投げ!第179回」1万円馬券勝負

乗峯栄一

メイショウボーラーと井川慶、運命の2003年10月18日

[写真1]キセキ 【写真:乗峯栄一】

 巨人のかつてのエース内海が泣いている。「チェンジアップが操れなくなった」と俯いたコメントをしている。助けてあげたい。

 ぼくには野球の経験がない。30年ほど前、定時制高校野球部の監督をイヤイヤやらされ、試合前のノックでどうしてもキャッチャーフライが上がらず「お前はフライは捕らなくていい」と自軍捕手に吐き捨てた男である。

「お前ら、いわば野球の初心者だから、サインは三つだけにしておく。バントのときはこうやって胸を触る。“乳バンド”と覚えとけ。盗塁はこうやって人差し指を曲げる。盗みだからな。“待て”はこうやって股間を触る。マツぼっくりや。どうや、覚えやすいやろ」と指示した男だ。

 それでもチェンジアップについてはプロ選手にも教えることが出来る。

 2003年、阪神タイガースは星野新監督のもと、18年ぶりのセリーグ優勝を果たす。一番の立役者は24歳のエース井川慶だった。井川は速球とチェンジアップだけで20勝投手となり、MVPにも輝いた。

 運命の日は2003年10月18日。デイリー杯でメイショウボーラーが勝ち、馬連200円という「やろうって言われても要らんて断るわ」と呟いた配当が付いた日である。

 淀の帰りにガックリうなだれて京橋のおでん屋に入り、そこのテレビで見ていた。ダイエー(現ソフトバンク)ホークスとの日本シリーズ第一戦である。

 阪神の先発はもちろん井川慶だが、この日の井川はホークス主力打者にボカスカ打たれた。この第一戦の井川ショックが尾を引き、シリーズは結局3勝4敗でホークスのものとなる。

 それにしても不可解な井川の打たれ方だった。しかし後になってある事実を聞く。シリーズ第一戦を前にして「ホークスベンチが井川のチェンジアップを見抜いた」という噂が出回っていたらしい。

 チェンジアップというのは、速球と同じフォームなのに抜けた球が来るという、いわば“騙し球”だ。「チェンジアップが来るぞ」と思って構えていればこれほど打ちやすい球はない。ここまで来れば既に野球技術の話ではなく神経戦の話だ。ホークスベンチは“騙し球”に対して“騙し”で対抗した。

 井川慶はこの年の20勝をピークに成績はじりじり落ちていき、大リーグでの冷遇もあって、日本帰国後のオリックスでもなかなか過去の栄光を取り戻せない。2015年にオリックスを退団したあとも、関西独立リーグなどに属して、39歳にして、まだ復活を夢見ているが、前途は厳しい。

見破り方の見破り方を見破る方法すら我々はすでに把握している

[写真2]サングレーザー 【写真:乗峯栄一】

 すべての原因は03年、ホークスとの日本シリーズ第一戦、10月18日直前にあった。

 井川慶という投手は左腕から繰り出す快速球が持ち味の投手である。その速球とチェンジアップ、持ち玉はこの2種類しかなかった。

 井川慶最大の敗因は、ホークス打者が「(井川のチェンジアップが)読めた」とほくそ笑んだ(ように見えた)とき「え、分かっちゃったの?」とマジになってしまったことだ。成績が下降したのも、大リーグで成功しなかったのも、原因はすべてこの瞬間にある。

 チェンジアップというのは、速球と同じフォームで投げるのだが、中指と人差し指の間で“抜く”ボールである。いわば騙し球である。「その騙しが分かった」とホークス・チーム全体が情報を流したのだ。

 詐欺師が、訪問した家がたまたま大詐欺師の家で、慌てて「ごめんなさい、騙してました」と謝って帰ったということだ。

 スパイを捕まえたとき「捕まえたぞ」と牢屋に入れるのは最低の方策で、騙されたふりをしてニセの情報を流す、つまり二重スパイとして使うのが諜報機関の常道だ。

 井川に対して「ホークスはあなたのチェンジアップを見破ったらしい」と言う者がいたら、そいつを捕まえて「実は私はホークスの見破り方を既に見破っている」という情報を流す。ホークス側はその情報に慌てて「実は見破り方の見破り方すら我々は既に見破っている」と言い返す。阪神は「見破り方の見破り方を見破る方法すら我々はすでに把握している」と情報を流す。

 この辺りまで来ると、阪神もホークス自身も、そして井川慶自身も、自分で何を言っているか分からなくなるから、パニックになる。そうしたら、無心でチェンジアップを投げられるのだ。これが正しい“神経戦チェンジアップ投法”だ。

 巨人の内海も「内海のチェンジアップは見切れた」という情報に疑心暗鬼になっているから「操れない」などと弱気になる。大事なのはまず巨人軍と内海自身が「内海のチェンジアップは見切れたという、その見切り方すら既に私は見切っている」というコメントを出すことだ。

 そうすると、内海のチェンジアップは闇夜のカラス、疑心暗鬼の中でしかバッターは待てない。チェンジアップというのは、そういう神経戦のボールなのだ。

1/3ページ

著者プロフィール

 1955年岡山県生まれ。文筆業。92年「奈良林さんのアドバイス」で「小説新潮」新人賞佳作受賞。98年「なにわ忠臣蔵伝説」で朝日新人文学賞受賞。92年より大阪スポニチで競馬コラム連載中で、そのせいで折あらば栗東トレセンに出向いている。著書に「なにわ忠臣蔵伝説」(朝日出版社)「いつかバラの花咲く馬券を」(アールズ出版)等。ブログ「乗峯栄一のトレセン・リポート」

新着記事

編集部ピックアップ

コラムランキング

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着公式情報

公式情報一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント