いつになれば我が意をエタリオウ 「競馬巴投げ!第178回」1万円馬券勝負

乗峯栄一

初めて馬券を買ったのが昭和51年のダービー

[番外写真1]1993年菊花賞パドックのビワハヤヒデと担当・荷方厩務員 【写真:乗峯栄一】

 初めて馬券を買ったのが大学時代、トウショウボーイ・テンポイントの一騎打ちと騒がれた昭和51年のダービーだったから、競馬歴は42年ということになる。

 大学卒業が近くなり「お前、卒業したらどうするんだ?」と聞かれると「運送会社の労働組合に入ってヤクザと戦う」と話していた。別に女工哀史や“野麦峠”の時代じゃないんだから、組合潰しにヤクザが出てくることもないだろうとも思えたが、でも結構本気でそんなことを考えていた。部屋に籠もり新聞広げて求人広告を探すが、でもどの運送会社が組合潰しするのか分からない。「うちのモットーは労働組合潰しです」と書いてある求人広告なんてない。困った。

 そんなとき出身の姫路で中学校の同窓会があり、一人の女の子が横に来て「ずっとあなたのことが好きだったの。あなたのお嫁さんになりたい」と小声で言う。「何を言うか、お前はクワセ女か!」とそう言うべきだ。そう言うべきだったがちょっと浮ついた。「それは奇遇。ぼくも中学校のときから好きだったんや、結婚しよう、結婚しよう」と言ってしまった。「一年待ってくれる? 留年して教員免許取る。教員免許には教育実習が必要だから、どうしても一年留年しないといけない。それでもってバシッと就職。運送会社の労働組合? そんなもんで家庭が持てる訳がないやろ。大丈夫、一年経ったらぼくは立派な教員になってるから」

 留年して、猛烈な勢いで教員免許単位を取り、全国あちこちの採用試験受けて大阪の定時制高校教員だけ合格した。

「待たせたね、来春から大阪で一緒に暮らそう」と手紙書いたら「ごめんなさい、あなたとはお別れします。好きな人が出来ました。待てなかったんです」という返事が来た。「待てなかった? 待てなかったのか、それじゃしょうがないや、ははは」と笑いながら、少しだけ、彼女の実家や職場近くに行って暴れた。それぐらいはこっちの権利だ。

難波場外は週末の主たる居場所になった

[番外写真2]イブキカミナリモンと若き日の小林常浩 【写真:乗峯栄一】

 いまはどうか知らないが、当時の定時制高校教員は時間があった。夜11時頃、大阪住吉のアパートに帰ってきて、夜じゅうあらぬことを考えて過ごした。

 中身は主に三つ。

「オレ、なんで大阪にいて教員なんかやってんだろ」

「女のあそこ、どうなってるんだろ」

「今週の競馬、どうなるんだろ」

 全然脈絡がないようにも思えるが、きっと深い深いところで、この三つはつながっているはずだ。

 特に恋愛落胆の反動かどうか、この頃の競馬への熱中ぶりは自分でも凄かった。南海大阪球場の外野スタンドの下、難波場外は週末の主たる居場所になった。ハシハーミット・ハシクランツの親子どんぶり菊花賞も、真っ赤な勝負服に真っ赤な手綱のオペックホースのダービーもここのテレビモニターで見た。

「作家になるので教員やめます」と職員会議で言ったのが昭和58年の春だった。どうやったら作家になれるのか、作家になる資質があるのかどうか、まったく霧中の手探りだったが、わずかな退職金を手に部屋に籠もって二つのものを書いた。一つは「馬はなぜ走るか、空間が歪んでいるからだ」という画期的テーマのエッセイで、第一回「優駿」エッセイ賞に応募したが、一次選考も通らずあえなく落選する。馬以外、誰もこの世の空間が歪んでいることに気づいていないからだ。

 もう一つは「こうであって、なぜこうでなければならないか」という屁理屈こねくり回す青年の小説で、これは角川「野性時代」新人賞最終選考まで行ったが、当時まだ元気だった中上健次に「便所の落書き」と言われて落選した。でもまあ初めて書いた小説で最終選考まで行くんだから、これって結構凄いんじゃないかと高をくくってしまった。これが大きな間違いで、それ以後10年近く、繊維問屋やファミレスやら塾講師なんかのアルバイトをしながら、週末の競馬だけを楽しみに地を這う日常を送った。

我が劇的変化第一号がビワハヤヒデ

[番外写真3]浜田光正調教師(右)と若き日の乗峯栄一 【写真:乗峯栄一】

 競馬はじめて15年、平成4年の2月にスポニチ(関西版)のレース部長から突然電話をもらう。翌日会ったレース部長は「予想コラム連載しませんか」という望外の提案をくれた。「ぼくのような無名作家でいいんですか?」と言うと「いいんです、関西には毎週土日書ける暇な作家はめったにいないんです」と部長は即答した。圧倒的な説得力だった。

 レース部長は「とにかくトレセン行ってください、あなたのコラムはそれを“売り”にしますから」と言うので、朝4時などという時間に起き、不慣れな車の運転をして栗東まで行く。馬の調教も見るが、見たって分からない。凄いなあとか、速いなあとか呟くだけだ。「あ、武豊や。武豊が歩いてる、へえ、武豊って歩くんや」とも呟いた。

 そんな中、この孤独なトレセン中年転校生に話しかけてくれる人間が一人だけいた。ぼくと同じ時期にスポニチにコラムを書き始めた、いわば“スポニチ同期生”の浜田厩舎調教助手・小林常浩である。騎手課程を卒業したが、試験直前で師匠と喧嘩して遁世、関西栗東に流れて十数年になる。頭は切れるし、文才もあるが、生来の酒好き、女好きもあってとにかく一筋縄ではいかない。しかし彼の面倒見の良さは、オドオドするだけのトレセン初心者にとって何よりありがたかった。「おっさん、トレセン初めてか? じゃ、とりあえずオレの知り合い紹介してやるよ」とくわえタバコに一升瓶持って、あちこちの競馬人に引き合わせてくれた。

 もちろん最大の紹介相手は当時の親方・浜田光正調教師である。調教師というのは“先生”だ。めったなことを言ってはいけないし、第一ちょっとやそっとでは会えないというイメージだったが、浜田さんは違った。厩舎近くで会うたび「やあ、久しぶり」と手を振ってくれ「もう帰るの? うちのハヤヒデ見ていかないの?」と言う。

 この平成4年は浜田厩舎にとっても初の大物ビワハヤヒデがデビューした画期的年だった。ハヤヒデ担当・荷方(にかた)厩務員もいつも馬房ハナ前の簡易冷蔵庫から缶コーヒーを出して勧めてくれる。飼い葉桶ひっくり返してテーブルにし、ビワハヤヒデの巨大なケツを見ながら“喫茶ハヤヒデ”の開店となる。

 競馬というのは競馬場の柵のこっち側でやるものと思っていた。万が一、文筆で有名になったらどこかに予想を書くことはあるかもしれないという想像もあった。でも月に何度もトレセン行って、武豊や田原成貴に話をしたり、調教師と会ったり、GI馬に触ったりというような、そんな競馬をするというのは全く想像外のことだった。我が劇的変化第一号がビワハヤヒデということになる。

 平成5年になってハヤヒデはナリタタイシン、ウイニングチケットと共に“クラシック三強”と言われる。皐月賞では早め抜けだし、勝ったと思ったところを武豊タイシンに強襲される。ダービーはチケットにあと一歩届かずまたしても無念2着。捲土重来、ここが最後の菊花賞だった。ハヤヒデは淀直線で今度こそ誰も追いつけない末脚を繰り出し、5馬身差レコード勝ちの圧勝を演じる。ぼくにとっても競馬歴最大の感動GIとなった。

 小林常浩はこのあと増本厩舎、安田伊厩舎などを所属転戦したあと、突然いなくなった。騎手試験直前以来20年ぶりの逐電遁世である。どこにいるんだろと気を揉んでいると3ヶ月ほどして、ぶらりとまた栗東に戻ってきた。

「どうすんの、これから? コンビニのレジ打ちや駐車場の整理員なんか出来ないやろ?」と言うと「それは出来ん」と即答し「しょうがないから物書きでもする」と言った。

 まあ物書きがどんなに大変かいっぺん経験してみるといいわと思っていたら、数ヶ月してまた電話が入り「取ったよ」と言う。「取ったって何や、そんな競輪の万車券取ったぐらいで一々電話して来なくていい」と言うと「いや、今回は車券じゃない。優駿エッセイ賞っていうの? あれ取ったんだよ」などとほざく。ぼくの「空間が歪んでいるから馬が走る」という画期的エッセイは一次選考も通さなかったくせに“しょうがないから物書きでもする”男には大賞やるのか。ぼくは本気で「優駿」編集部を恨んだ。

 そういえばビワハヤヒデの菊花賞の祝いに、ぼくは“コモかぶり一斗樽”というのを浜田調教師の所に持って行った。単勝3万円という生まれて初めての巨額馬券はこの樽に消えたが、それでも浜田さんやスタッフに喜んでもらえればいいと思っていた。しかしその樽、調教師が出張から帰るまでの二日のうちに小林常浩が全部飲んでしまった。

 その“ライター”小林常浩も、去年の寒い2月の日に、酒が元の肝硬変で死んでしまった。58歳の若さだった。

 ぼくももうじき跡を追うが、その前にもう一度、あの25年前の菊花賞の感動を味わいたい。

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著者プロフィール

 1955年岡山県生まれ。文筆業。92年「奈良林さんのアドバイス」で「小説新潮」新人賞佳作受賞。98年「なにわ忠臣蔵伝説」で朝日新人文学賞受賞。92年より大阪スポニチで競馬コラム連載中で、そのせいで折あらば栗東トレセンに出向いている。著書に「なにわ忠臣蔵伝説」(朝日出版社)「いつかバラの花咲く馬券を」(アールズ出版)等。ブログ「乗峯栄一のトレセン・リポート」

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