単身渡英から30年でF1チーム代表に上り詰めた小松礼雄 就任1年目から結果を出し続ける秘密は?

柴田久仁夫

「今はとにかく楽しい」。熾烈な中団争いさえ、小松礼雄チーム代表は存分に楽しんでいる 【(C)Haas】

「小松マジック」なんてない

 「小松ハース」の勢いが止まらない。

 小松礼雄がチーム代表に就任した今季、ハースF1は第2戦サウジアラビアGPでまず初ポイントを獲得。続くオーストラリアGPでは9、10位とダブル入賞を果たした。

 昨年最下位に終わったハースは、今季も苦戦が予想されていた。ところが蓋を開けてみれば、好調RBに次いで選手権7位につける。今季のF1は上位5チームと6番手以下の5チームとの実力差が大きく、アルピーヌやウィリアムズら下位3チームはいまだに1ポイントも取れていない。そんな中、最下位候補だったハースの大健闘は驚きでしかない。

 なのでF1報道では、「小松マジック」という言葉をそこかしこで聞く。低迷していたチームが、予想外の活躍で鮮やかにポイントをもぎ取る。まるで魔法のように。しかし小松本人は、「マジックなんてない」と、否定する。

「やってることは、小さなことの積み重ねです。何が問題なのか、どうやって解決できるのか考えて、チームの能力を見ながら、できることから地道に徐々にやっていく」

「あと一番大事にしてるのは、チームとして戦うことですね。能力のある人はいっぱいいるので、それをなんとか一つにして、皆で同じ方向を向いて進めれば、今より良くなるはず。そう思ってやってます」

※リンク先は外部サイトの場合があります

琢磨、グロジャンとの出会い

ルノーF1時代の小松代表とグロジャン。二人の交友関係は今も続く 【(C)柴田久仁夫】

 セナ・プロスト時代のF1に魅せられ、あの世界で働きたい。そう思ったのが中学生の時だった。F1をやるには、イギリスに行った方がいいらしい。高校卒業後には、単身イギリスに渡る。英語の勉強をしながら、F1チームやオートスポーツなどのレース雑誌宛てに片っ端から手紙を書き、彼らのアドバイスをもとに技術系に強いラフバラー大学に入学した。

 すでにこの時には将来の職業をF1エンジニアと定め、自動車工学を専攻する。高校時代は数学も物理も、肝心の英語も大の苦手だった小松だが、2位の成績で卒業。夢の実現への強い思いが、苦手意識を克服した。

 僕が小松礼雄の存在を初めて知ったのは、ちょうど20年前の2004年のことだ。F1ではミハエル・シューマッハを擁するフェラーリが圧倒的な強さを誇っていたが、時に彼らと互角の速さを見せていたのがBARホンダだった。

「うちには秘密兵器がいますからね」

 当時エンジニアリング・ディレクターだったホンダの中本修平エンジニアがそう自慢していた「秘密兵器」こそが、小松だったのだ。

 小松はその数年前にシルバーストンサーキットで佐藤琢磨と偶然出会い、意気投合。英国F3チャンピオンからF1にステップアップした琢磨の推薦で、大学院卒業後にHRD(ホンダF1の英国拠点)への入社を果たした。

「とにかく優秀な男で、面接では即決でした。すぐにBARに、タイヤエンジニアとして出向したんです」(佐藤琢磨)

 実戦投入するタイヤの特性を分析し、最適なスペックを決めていくのが小松の仕事だった。BARホンダは前年終盤にブリヂストンからミシュランへとタイヤを変更したが、足回りはブリヂストンを想定して開発されていた。大きな弱点になりうる要素だったが、小松の緻密な解析は「タイヤ選択を外したレースは、ほとんどなかった」と、琢磨が称賛するほどで、BARホンダの選手権2位獲得に大きく貢献した。

 その実力はライバルチームにも知れ渡り、2005年にタイトルを獲得したばかりのルノーF1に誘われ、移籍。そこでロマン・グロジャンと出会い、担当エンジニアとなったことが、小松のその後の人生を大きく変えていく。

1/2ページ

著者プロフィール

柴田久仁夫(しばたくにお) 1956年静岡県生まれ。共同通信記者を経て、1982年渡仏。パリ政治学院中退後、ひょんなことからTV制作会社に入り、ディレクターとして欧州、アフリカをフィールドに「世界まるごとHOWマッチ」、その他ドキュメンタリー番組を手がける。その傍ら、1987年からF1取材。500戦以上のGPに足を運ぶ。2016年に本帰国。現在はDAZNでのF1解説などを務める。趣味が高じてトレイルランニング雑誌にも寄稿。これまでのベストレースは1987年イギリスGP。ワーストレースは1994年サンマリノGP。

新着記事

編集部ピックアップ

コラムランキング

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着公式情報

公式情報一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント