優勝争いができるチームを作るために北海道へ…桜井良太がターニングポイントで抱いた決意を実現する

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レバンガ北海道の桜井良太GMに自身のバスケライフを振り返ってもらった 【(C) LEVANGA HOKKAIDO 】

 B.LEAGUE 2023−24シーズンを最後に現役生活に幕を閉じた桜井良太。現在は所属していたレバンガ北海道のゼネラルマネージャー(以下GM)に就き、チーム強化のみならず運営関連の会議にも参加するなど忙しい日々を送っている。

 桜井GMといえば、今でも語りぐさになっているのが高校3年次のウインターカップ。田臥勇太(宇都宮ブレックス)を擁して高校三大タイトル(インターハイ・国体・ウインターカップ)9冠を達成したことでも知られる高校バスケ界の強豪、能代工業高校(秋田県、現能代科学技術高校)を相手に1人で51得点を挙げて勝利の立役者となり、その名前を全国に響かせたことでも知られている。

 バスケットボールに限らず、人生を振り返ればいくつものターニングポイントがあるもの。今回、桜井GMにこの「ターニングポイント」をキーワードに現役時代を振り返ってもらった。現役生活の様々なタイミングに訪れた節目が桜井GMに何をもたらしたのかをうかがっていく。

勝ったことで様々なことが一変した能代工業戦

ウインターカップ2回戦で51得点を挙げて能代工業を破った立役者となった 【写真=本人提供】

――桜井GMのバスケ人生のターニングポイントと言えば、最初に思い浮かべるのが高校3年生の時のウインターカップです。能代工業を破ったあの時の東京体育館の雰囲気を覚えていますか? 桜井GMの四日市工業高校(三重県)が次第に能代工業を追い詰めていった時、東京体育館のざわめきは忘れられません。

桜井 試合中のことはあまり覚えてないんです。多分ゾーンに入っていたのだと思います。自分で言うのもなんですが、ゾーンに入っていなければあんなパフォーマンスは発揮できないかと(笑)。試合が終わった瞬間に足がつってしまって、チームメートが迎え入れてくれました。試合が終わって2階の観客席に上がった時にたくさんの人に囲まれたのは覚えています。「おお、なんかすごいな。なんかスターみたいじゃん」と思ったのを覚えています。

――あの年の四日市工業は能代工業だけでなく、全国的に強豪と言われていたチームに勝っています。インターハイでは福岡大学附属大濠高校(福岡県)を破っていますし、ウインターカップでも能代工業に勝つ前に洛南高校(京都府)を破っています。メンバーが揃った代だったとも言えるのではないでしょうか。

桜井 そうなんです。結構良いメンバーが揃っていました。ポイントガードに南部(佳紀、桜井GMと一緒に愛知学泉大学に進み、主力として活躍)がいて、同級生に186センチと193センチがいたので、僕は3番としてオールラウンドにプレーができたと思います。代によってはセンターをしていたかもしれません。

――三重県のドリームチームとも言えますね。

桜井 中学の時に出場したジュニアオールスター(都道府県選抜対抗戦)で一緒に出場した選手たちと県内に残って強くしようという話がありました。ただ僕は県外の学校から誘われていて、どうしようかと思っていたのですが、県の関係者の方に残ってほしいと言われ、四日市工業に進むことを決めたんです。

――ウインターカップに話を戻しますが、能代工業の次の相手がインターハイで勝っている福大大濠でした。勝ち上がる自信があったのではないですか。

桜井 ただ、大濠さんはもう負けられないという感じでプライドをかけて臨んできたと思います。うちへの対策もしっかり練られていて、南部と僕ががっちりマークされるトライアングル&2のゾーンディフェンスを敷かれて、何もできませんでした。

――このあたりもマンガの『SLAM DUNK』と似ている点で、桜木花道がいた湘北高校も山王工業に勝った次の試合で負けてしまいます。大濠戦も何か急に勢いが止まってしまった感じでした。

桜井 実は2年の時もウインターカップで能代工業と戦っていて、その時は44対121という、ほぼトリプルスコアという結果で負けました。1年でこの結果がひっくり返ることはないと思っていたので、だから3年の時は引退試合のつもりで、最後は目立って終わってやろうという気持ちで臨んでいたんです。実力以上のものが出まくった試合の次は、何も残っていない状況でしたね。だから試合後も悲壮感はありませんでした。「よく頑張ったよな、俺たち」という感じでしたね。

――四日市工業卒業後、愛知学泉大学に進学します。ウインターカップの時点では進路はすでに決まっていましたか。

桜井 はい、決まっていました。関東の強豪校からも話があったようですが、当時は小野秀二さん(現バンビシャス奈良ヘッドコーチ)が監督をされていて、早い段階から声をかけてもらっていたのと、四日市工業の先輩たちも愛知学泉大に進んでいたので、自分も進学することを決めました。

2度目のターニングポイントは日本代表に選出

――熱心に勧誘してくれた小野さんですが、大学に入学した時にはチームを離れていたと伺いました。

桜井 そうなんです。小野さんは大学を辞めてトヨタ自動車(現アルバルク東京)のヘッドコーチに就任していました。実は高校の時に誘ってくださった先生も僕が入学した時には異動で他の学校に移っていて。高校、大学とも誘ってくれた指導者がいなくなるという憂き目を見ました(笑)。加えて小野さんには「今度はトヨタ自動車で一緒にやろう」と誘われたので入団を決めたのに、今度は日立サンロッカーズ(現サンロッカーズ渋谷)にチームを変わられてしまいました(笑)。

――小野さんはいなくなりましたが、愛知学泉大ではどのようなことを学びましたか。

桜井 小野さんの跡を引き継いだのが山本明先生(現日本バスケットボール協会強化委員)でした。バスケに対して真摯に接する方でしたし、厳しく指導をしてもらいました。期待もされていたと思うのですがけど、ただ甘やかされることはなく勝利にもこだわっていたので、愛知学泉大に進んで良かったと思っています。

――そして、大学3年生の時に日本代表候補として招集されます。2006年に日本で世界選手権が開催されることが決まり、ジェリコ・パブリセヴィッチ氏が男子日本代表のヘッドコーチに招聘され、強化を進めていこうという時期でした。これも桜井GMのキャリアの中で、大きなターニングポイントだったと思います。

桜井 そのころは折茂さん(武彦、現レバンガ北海道社長)をはじめとする僕たちよりも上の年代の方々が代表のメンバーを占めていました。その中でジェリコさんがヘッドコーチになって、「大学生からも発掘したい」「若い世代を見てみたい」ということで集められた中の一人です。最初は40名ぐらいが集められたのですが、何回かの合宿を重ねることでどんどん削られていき、僕はそれに残ったわけです。

――練習が厳しいことでも知られていました。

桜井 あんなに怖い人はいないと思いますよ(笑)。クロアチアの山奥で高地トレーニングをした時は鬱のようになってしまい、練習に行くのも嫌だったことを覚えています。

――ただ、この合宿に参加していた人たちの選手寿命が長いんですよね。

桜井 当時のメンバーで話すこともあるのですが、本当にそうですよね。あのころ、代表メンバーはその厳しい練習をしてきたことで実力がついていき、代表以外の人たちとの差がついたイメージがあります。その貯金があるから続けていられるのかなというのが、みんなで話した時の結論ですね。

――練習はハードという一面がありましたが、ヨーロッパで合宿したことで色々な代表チームと練習試合ができ、その経験が強化を進めたと聞いたことがあります。

桜井 最初はまったく歯が立たず、ヨーロッパ各国の代表と試合すると、30点、40点開くのが当たり前だったのですが、それが1〜2年でクロアチアやリトアニアのセカンドチームに勝ったりもしました。最初の方は「日本とやって自分たちに何かメリットがあるの?」というような相手の態度が最後の方はなくなっていましたし、自分たちも自信がついていきました。

厳しい合宿を経て日本代表に選ばれ、世界選手権を戦った 【(C) fiba.basketbal】

――そうして迎えた自国開催の世界選手権では、目標の予選突破まであと少しというところまで善戦しました。

桜井 予選グループで2勝できれば決勝トーナメントに上がれるという目標でした。アンゴラとパナマに勝つという狙いです。初戦はドイツとの対戦で、勝つことはできなかったのですが、手応えは十分ありました。そして、アンゴラ戦を迎えるのですが、これが予想以上に強かった(笑)。ドイツよりも強いんじゃないかって思えるぐらいで、残念ながら思惑通りに勝利することはできませんでした。それでもパナマには勝てて、残り2試合で1つは後にこの大会で優勝するスペイン、そしてもう1つがニュージーランド。このニュージーランド戦にすべてをかけたわけです。

――そのニュージーランドは前回大会でベスト4に入った強豪でした。

桜井 ですからニュージーランド戦は、厳しいのではないかという予想でした。しかし、試合が始まるとこれまでで最高のバスケができて、リードを奪って前半を終了するわけです。しかし、世界規模の大会での経験が少ないこともあり、後半は追い上げを喰らいました。そして、後半にやられていた相手のセンターのところへ、僕がコーナーからヘルプに行ってしまったんです。そうしたらパスをさばかれ、慌ててシューターにクローズアウトに戻ったのですが、本当にウソみたいにスローモーションでしたね。自分が間に合わず、打たれたシュートが決まって逆転され、そこから再逆転できずに終わった試合でした。試合が終わったあとは、みんなもう抜け殻みたいになっていましたね。

――日本は広島会場予選を戦っていました。そこで代表チームは解散になったと思うのですが、決勝トーナメントが行われたさいたまスーパーアリーナには試合を見に行きましたか。

桜井 できなかったです。広島のあとも本当に抜け殻。もう灰になってしまった感じで、バスケもしたくないし見たくもない。それぐらいその大学3年から世界選手権にかけていました。

北海道への移籍は運命だったのか

――代表活動中に大学を卒業して、トヨタ自動車に入団。ルーキーシーズンにはリーグ制覇や天皇杯優勝に貢献しました。

桜井 優勝はしたものの、自分とすればこれからどうすればいいのかと迷いもあった時期でした。2年目にトーステン・ロイブルがヘッドコーチになるのですが、トーステンが生き残る道を示してくれたのが大きかったと思います。当時のトヨタには点を取る選手がいっぱいいました。その中で「ディフェンスのスペシャリストとして貢献してほしい」と言われて。ディフェンスを突き詰めればいいんだと、吹っ切れましたね。オールコートのプレスで僕がポイントガードをマークして相手のオフェンスのリズムを崩したり、相手の得点源にもつきました。外国籍選手もそうですね。

――それまではオフェンスがウリだったと思いますが、プレーの幅が広がったイメージですか?

桜井 そうですね。ディフェンスに振り切れたのは同世代の川村卓也(新潟アルビレックスBB)の存在も大きかったかもしれないですね。川村の得点能力にはかなわないと思っていましたし、ディフェンスに振り切ったことで生き残っていけたと思っています。

――そんな中、3年目にはレラカムイ北海道に移籍します。

桜井 トヨタ自動車ではリーグ制覇2回、天皇杯優勝も3回経験させてもらったので、次は違う自分が移籍先のチームを優勝させたり、プレーオフに絡めるようなチームを作りたいと思い、移籍を決意しました。折茂さんと同じタイミングでの移籍でしたが、それはたまたまで、折茂さんに誘われたから北海道に行ったわけではありません(笑)。

――ただレラカムイ北海道は4年でチームが消滅しました。

桜井 北海道へ移籍する時も周囲から心配されていました。同じように立ち上げたのにうまく行かなかったチームもあったので、北海道は大丈夫かと。でも当時は日本代表にも入っていたし、まだ獲ってくれるところがあるだろうというぐらい安易な気持ちで移籍したんです。ただ、実際にチームがなくなるとなると、バスケとは違う部分で暗い雰囲気になってしまったし、選手も給料が入ってこないとわかった時には、こんな殺伐とした空気になるんだって。経験をしなくていいならしたくなかったとも思いますが、振り返るといい経験にはなりましたね。

――なのに北海道に残った理由は何ですか?

桜井 残りたくなっちゃったからでしょうね。あの時、たくさんのチームからお誘いをいただきました。いいオファーもありましたし。でも、北海道に残らないと自分にとって負けだったんです。

――その後、社長としてレバンガ北海道を立ち上げる折茂さんを支えなければという思いもあったのですか?

桜井 ありましたね。支えるというほどのだいそれた思いではなかったですけど。ただ何か、人が死ぬんじゃないかという酷い雰囲気だったんで、そこに折茂さんを一人で置いていけないなという気持ちでした。あとは個人的に北海道でバスケットを続けたいと。トヨタ自動車から移籍を決めた時に、自分がメインのチームで優勝したり、プレーオフに絡むチームを作りたいという気持ちがあったのに、チームの状況が悪くなったから他のチームに行って続けるのもモチベーション的にあんまり上がらなかったですね。

――そう思えるほど、北海道の人たちは温かいのですね。

桜井 あったかいですよ。実際、レラカムイがなくなった時も自分たち以上に心配してくれましたし、すごく温かかった。今も温かいですし、優しいですよ。そういう人たちです。

――北海道に骨を埋める気持ちですね?

桜井 そのつもりです。振り返ると、ここまで長くプレーできたのは北海道にいたからだと絶対に言えますね。何回も足を手術しなければいけないコンディションだったので、トヨタ自動車に残っていたら30歳くらいには引退していたかもしれません。キャリアを長く続けられたのは北海道に残ったからだと思いますし、素晴らしい終わり方をさせてもらえたので後悔は全くないです。一つも。

現役最後の試合はホームで行われ、かつて所属したチームの後進、アルバルク東京の選手も加わって胴上げ 【(C) B.LEAGUE】

バスケ界に訪れたターニングポイント

――今、男子の日本代表がワールドカップやオリンピックに出場するなど、ブームが訪れています。B.LEAGUEでも各クラブが入場者数を更新するなど、追い風が吹いています。この状況をどう見ていますか。

桜井 男子の代表が世界大会にコンスタントに出られるようになったのは、もちろん八村選手(塁/ロサンゼルス・レイカーズ)や渡邊選手(雄太/千葉ジェッツ)の存在があったからというのは間違いないと思います。でもそれだけでは絶対ないと思っています。一番はやっぱりB.LEAGUEが発展したから。海外でも有名な外国籍選手がプレーするようになったリーグにおいて、最後のクラッチタイムで日本人がシュートを狙って勝負を決めるというシーンが見られるようになりました。これだけリーグが発展して価値自体が高くなってくると選手の意識も上がるし、リーグの成長と直結して日本代表強化にも繋がっていきますね。

――実際昨シーズンまでプレーしていましたが、プレーの強度が上がるなど、戦術的なものも含めてレベルが上がったことを肌で感じましたか。

桜井 感じました。だから僕はなるべく長く現役を続けたかったし、選手だけでなく海外からのコーチから新しいことを教わることも刺激になっています。だから、強度も精度も上がっているのだと思います。現役の最後の方は足の状態もあり試合に出られないことも多かったのですが、練習自体が楽しかったですよ。毎年毎年アップデートされて進化しているなと感じていました。

――どうですか? 20年若かったら、桜井選手はB.LEAGUEでもバリバリプレーしていますか?

桜井 どこまでできたかなって思いますよね。自信はありますよ、もちろん。それこそ、一緒に歯を食いしばって代表で頑張っていた連中とそういう話をすることもあります。選手をやっていた以上、みんな自信がありますから。そういう話をするのも面白いのですけど、やっぱり今の選手はうまいですよ。うまいし、強いと思いますね。

――2シーズン後にはB.革新がスタートします。GMとして、どのようなチームづくりをしていきますか。

桜井 ゴールが見えているというか、完成図のイメージはできています。北海道の土地の魅力はもうみんなが感じていることだと思いますし、それには疑いようのないポテンシャルがあります。あとは僕が北海道に来る時に思い描いていたチーム、毎年チャンピオンシップに出場したり、優勝争いに絡めるチームになること。それさえ達成できれば、このクラブは自力で成功していくと思っています。そこにたどり着くには、クラブの組織力強化が欠かせません。フロント組織の強さが、現場のチームの強さに直結することは、キャリアの中で数多くの見てきたクラブが証明していますし、自分たちもそうならなければいけないはずです。

――GMとして今、いちばん大変なことはなんですか。

桜井 すでに来シーズンのチーム編成が始まっているので、色々な交渉を含めて、それが一番の仕事です。毎日、世界中のエージェントからメールが来ますから、それに目を通すことも大変です(笑)。

現在はGMとして現役時代とは違う業務で忙しい日々を送っている 【(C) LEVANGA HOKKAIDO 】

取材・文=バスケットボールキング/入江美紀雄
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