単身渡英から30年でF1チーム代表に上り詰めた小松礼雄 就任1年目から結果を出し続ける秘密は?
そしてハースへ
現在の二人のハースドライバーも、小松代表に篤い信頼を寄せる 【(C)Haas】
天才肌のグロジャンは、精神的に脆い部分もあった。その後も好結果は出すものの、度重なるクラッシュも止まらない。それに対する非難に晒され、当時のグロジャンは見るからに憔悴していた。そんな彼と小松が辛抱強く話し込む姿を、僕は何度も見かけている。ドライバーと担当エンジニアの枠を超えた絆が、この時期に築かれたのだろう。
2016年、グロジャンは創設されたばかりのハースに、エース待遇で移籍した。小松も行動を共にすることを決断。ギュンター・シュタイナー代表の片腕として、チームを一から立ち上げていった。
開幕戦オーストラリアGPでのハースの異様な光景は、今も忘れられない。チーフエンジニアの小松をはじめ、スタッフのほぼ全員がやつれ切った表情なのだ。ライバルチームより明らかに少ない人数で車体整備などの作業が続き、開幕前テストから何日も徹夜を重ねてきたせいだった。
そして迎えた決勝レース。予選では予想通りQ1落ちを喫したが、決勝では波乱をかいくぐったグロジャンが初レースでいきなり6位に入賞した。上位陣のリタイアにも助けられたが、赤旗中断後に「チェッカーまでギリギリ走り切れるはず」と、ミディアムタイヤを履かせた小松采配が何より光った。そしてスタッフを労う小松の姿勢は、この頃から変わらない。
「あまりに仕事がきつくて、開幕前に辞めた人も何人もいる。でも彼らを含めたスタッフ全員の努力あってこその、6位でした。その苦労が報われて、本当に良かった」
「人生に失敗なんてない」
小松代表になってから、ハースの囲み取材には多くのジャーナリストが詰めかけ、真剣な質疑が交わされるようになった 【(C)柴田久仁夫】
ホンダやトヨタなど、日本資本のチームを除けば、F1史上初の日本人チーム代表の誕生だった。しかし小松に、浮き立つ気持ちはなかった。ハースは全10チーム中、最も年間予算が少ないと言われる。慢性的な資金難の中、新車VF-24は開発がかなり遅れていたからだ。
「もしシーズン前に、『開幕3戦中2戦でポイント取れますか』と聞かれてたら、『100%ありえない』と、言っていたと思います。それぐらい厳しい状況を覚悟していました」
去年のハースはレースでタイヤが持たず、失速するパターンだった。
「そう。なので開幕前テストも、ロングランに集中してやってました。『ひとつでいいから答えを出そう』と皆に言って、車体設計にたずさわるデザイナーだけじゃなく、エンジニア、ドライバーも一丸となって協力してくれた。その成果が出てるのかなと思います」
春の鈴鹿で開催された第4戦日本GPも、「オーストラリア同様、うちの車には合わない」と、小松は苦戦を予想していた。しかしニコ・ヒュルケンベルグ11位、ケビン・マグヌッセン13位と、入賞まであと一歩だった。もしヒュルケンベルグが再スタートに失敗して大きく順位を落としていなければ、もしRBのタイヤ交換作業があれほど早くなく、角田を中団勢トップでコースに送り出していなければ、ハースの3戦連続入賞の可能性は十分にあった。
今の小松は、本当に笑顔が輝いている。好結果が出ているというだけでなく、今の仕事が楽しくてしょうがないというのだ。鈴鹿でのトークショーで、小松と話した時のことだ。「若い人たちにアドバイスをお願いします」と振ったところ、こんな答えを返してくれた。
「失敗を恐れずとにかく挑戦してみる。それだけですね。僕もチーム代表やらないかと言われた時、もしかしたら結果が出せず1年でクビになるかもしれない(と思った)。世間的には、それは失敗かもしれない。でも自分が全力を尽くしてやったのなら、たとえクビでも僕の中では失敗じゃない。それを活かして次に進めばいいわけだから。とにかく結果を恐れず、やりたいことがあったら一歩踏み出してください」
(了)