洞ヶ峠の結論・クリンチャー 「競馬巴投げ!第166回」1万円馬券勝負
道修町(どしょうまち)という薬問屋
[写真1]ミッキーロケット 【写真:乗峯栄一】
道修町は、現在でも「薬の町」として、それこそ全国的に有名だが、大阪市内にはその昔、もう一つ薬で有名な街があった。道修町から約1キロ、南に下がった所に順慶町(じゅんけまち)という通りである。今は「南船場」として一括して呼ばれるようになり、道修町のように製薬会社の看板が軒を連ねることもない。東心斎橋からミナミへの入口として、飲食店が並び、深夜になれば国籍不明の女の嬌声の聞こえる単なる歓楽街の端っこになっている。
しかしこの「順慶町」には「道修町」にはない自慢がある。「道修町」の町名は、江戸時代初期に北山道修という有名な薬師(くすし・医者と薬剤師を兼ねる)がこの町にいたからだと言われている。この北山道修は実在したかどうかも怪しいと言う人もいるぐらいだが、順慶町にはちゃんとした名前の発祥人がいる。筒井順慶、あの「洞ヶ峠(ほらがとうげ)を決め込む」という、日和見(ひよりみ)人間をあざける警句で有名な大和の戦国大名・筒井順慶である。順慶は大名であると同時に薬草の研究にも秀でていた人間で、そこから秀吉の城下町の一角、順慶町にも薬問屋が並んだ。
筒井順慶と明智光秀に深い関係
[写真2]チェスナットコート 【写真:乗峯栄一】
筒井順慶は光秀の正妻の妹を妻としている。また信長傘下に入ることにより、松永弾正久秀との大和の覇権争いに勝つことができたが、この信長との仲介の労をとったのも光秀である。そういう意味で、縁戚・同盟関係では明智光秀に深い関係がある。
信長の急を聞いて、急いで都にとって返した(いわゆる中国大返し)秀吉と光秀の、いわゆる“山崎の戦い”では、順慶は当然光秀側に付くものと思われた。
ここで、出来れば畿内の地図を出して見てもらいたい。
千年の都、京都盆地に入るには、北からは琵琶湖東岸を進んで、琵琶湖から流れ出る巨大水量の瀬田川を越えねばならない。「瀬田の唐橋」である。また東から進むには伊勢路から笠取山連山の切れ目、木津に出てそこから北上しなければならないが、ここには宇治川を超えるという大事業がある。「宇治橋」である。平家打倒を目指した以仁王(もちひとおう)の戦いも“橋合戦”と称する宇治橋を巡る戦いが雌雄を決した。義経軍が木曽義仲を破るときも宇治橋を落とされ“宇治川渡りの先陣争い”をやらねばならなかった。
そしてもし西の摂津・大阪から京都盆地に入ろうとすれば、北の天王山、南の男山に挟まれた山崎の山峡を何とかしないといけない。天王山も男山も低い山ではあるが、その間は狭く、しかも桂、宇治、木津という三河の合流した淀の大流を越えねばならない。ここには古くから「山崎橋」という基幹となる橋が架けられていた。8世紀に僧・行基が設置事業を行ったと言われ、水無瀬川と淀川の合流地点あたりから男山の南に向けて橋があったと言われている。京阪電鉄駅にある“橋本”という地名はその名残である。
この三つの橋は“日本三古橋”と言われ、それぞれ“山崎太郎”(山崎橋)、“勢多次郎”(瀬田の唐橋)、“宇治三郎”(宇治橋)と呼ばれ、都防備の要となっていた。
では瀬田橋も宇治橋も、現在まで続いているのに、なぜ山崎橋だけは今はないのか? 今ないだけではない。三古橋のうち、最も早く架けられたはずなのに、11世紀には姿を消している。なぜか。三古橋のうち、山崎橋はなくなってもそんなに不自由しなかったからである。兵庫・大阪の港から入ってきた物資は陸上交通でなく船を使うようになったからだ。