洞ヶ峠の結論・クリンチャー 「競馬巴投げ!第166回」1万円馬券勝負

乗峯栄一

神経に活力を与える“洞草(ほらがぐさ)”

[写真3]シホウ 【写真:乗峯栄一】

 話を明智光秀、本能寺の変に戻す。光秀は、急を知って備中高松城で毛利方と和睦を結んで引っ返してきた羽柴秀吉と、山崎で対決することになる。当時のイクサというものは一地点集中の戦いは愚とされてきた。特にまだ信長を5日前に討ち取ったばかりで戦力的劣る光秀としては、一直線に都へ引き返して来る秀吉軍を四方からゲリラ戦で攻めて、混乱させるのが好ましい。最もいいのは淀川の南岸、男山方向から、同盟関係にある筒井順慶軍が秀吉軍の側面を突いてくれることである。事実、光秀は、順慶の大和郡山城に何度も早密書を送り、援軍を頼んでいる。

 それに呼応し、順慶は男山まで一旦来たのである。男山まで一旦来て、淀川の向こうに秀吉軍がいるのを見ている。そして「だけんど橋がネエでねえか」と言ったのである。「ここからじゃ、鉄砲撃ったって、弓引いたって届きもなんともしやしねえ」と溜息をついた。平安末期以後、水運にばかり頼って“山崎太郎”をないがしろにしたツケが、光秀に不幸をもたらし、秀吉に幸いをもたらしたのである。

 順慶は一旦南下して、男山も天王山も淀の低湿地も広大な巨椋池(おぐらいけ・今はすべて干拓耕地になっていて、淀競馬場の向うに京滋バイパスの高速道路が見える)もズラッと見渡せる洞ヶ峠で熟慮を重ねる。

 もし光秀に加勢するとすれば、一旦、この洞ヶ峠の下に降り、そこから巨椋池の出口、淀あたりの低湿地を全軍ビチョビチョになりながら北上して、いまの長岡京市にある勝竜寺城あたりで光秀に合流する以外にない。しかしそれでは秀吉軍の側面を突くことにはならない。「うーん、大変だなあ」と、京都南部低湿地をすべて見渡せる洞ヶ峠の床机に座って順慶は溜息をつく。

 そのとき、順慶は横に生えていた草を一枚手に取り、口に含む。この洞ヶ峠に生息する“洞草(ほらがぐさ)”というヨモギ草の一種は神経に活力を与えることを、順慶は独学の漢方学で知っていた。

シュヴァルグランはまた“一歩届かない”病?

[写真4]カレンミロティック 【写真:乗峯栄一】

 しかし草を飲み込み、茶を一杯口に入れたとき、「あれ、拙者、なんでこんなヨモギの原に、多くのむさ苦しい武者たちと一緒におるんだ?」と呟く。

「殿、いかがなされました?」とむさ苦しい武者の一人が言う。

「誰? お前?」と順慶は言う。

「殿、何を仰しゃられます、拙者、筆頭家老の島清興(きよおき)ではございませぬか」

「うん? 誰、それ?」

 こういう症状を精神医学的にはゲシュタルト崩壊というらしい。知覚散逸というやつである。洞草という葉っぱのせいであるか、あるいは順慶の血脈に元々そういう精神性があったのかもしれない。「自分は筒井順慶の子孫ではないか」と悩み、色々調べた作家・筒井康隆は「わが血筋には伝統的にゲシュタルト崩壊の資質がある」と中編小説『筒井順慶』の中で言っている。

 とにかく、それから順慶は3日にわたって、じいっと洞ヶ峠から京都南部の低湿地(いまの淀競馬場あたり)を眺めて過ごした。

「この巨椋池という湖を全部干し上げて田畑にし、宇治川と桂川の間の土地には競馬場でも作りたいのう、のう、“島なんとか”というむさ苦しい侍よ」と順慶は島清興に向けてぼんやり呟く。「洞ヶ峠で決め込んだらきっといい馬券になるぞ」とも順慶は呟いた。

 ゲシュタルト崩壊を起こす薬といえば、猛毒のようだが、しかし使い方によっては「AかBか」を強力に迫られて自己崩壊に至る人間を救う薬ともなる。

「シュヴァルグランにはまた“一歩届かない”病が出るんじゃないだろうか、出るか、出ないか、どっちだ」と、そういう切迫した問いに陥ったときは、洞ヶ峠まで行って(淀からすぐだから)、薬草を一枚口にするといい。

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著者プロフィール

 1955年岡山県生まれ。文筆業。92年「奈良林さんのアドバイス」で「小説新潮」新人賞佳作受賞。98年「なにわ忠臣蔵伝説」で朝日新人文学賞受賞。92年より大阪スポニチで競馬コラム連載中で、そのせいで折あらば栗東トレセンに出向いている。著書に「なにわ忠臣蔵伝説」(朝日出版社)「いつかバラの花咲く馬券を」(アールズ出版)等。ブログ「乗峯栄一のトレセン・リポート」

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