アイルトン・セナ没後30年。今も解明されていない事故原因 沈黙を貫く設計者エイドリアン・ニューウィ
セナはあっけなく逝ってしまった
生前のセナは寂しげな表情を見せることが多かった 【Photo by Pascal Rondeau/Getty Images】
2日前の初日予選では、ルーベンス・バリチェロが時速200km以上で縁石に乗り上げて宙を飛び、タイヤバリアと金網に激突。マシンは垂直に落下し、バリチェロは衝撃で気絶。鼻の骨折や腕の打撲程度で済んだのは奇跡だった。弟のように可愛がっていたセナは、病院に駆けつけた。
翌日の予選では、ローランド・ラッツェンバーガーがコンクリート壁に衝突。モノコック左側に大きく穴が開き、ラッツェンバーガーは頭蓋骨折で即死状態だった。1987年からF1取材を始めた僕には、初めての死亡事故。「F1では人は死なない」という根拠のない思い込みに、冷水を浴びせられた思いだった。仲間の事故死に、セナは号泣したという。
そして迎えた決勝レース。各国のジャーナリストの多くは、「グランプリの最中に死者が出た。それでもレースを続行する意味があるのか」と批判的だった。僕も同じ意見だった。しかし世界数10カ国にライブ中継を行うビッグビジネスに成長していた当時のF1に、レース中止の選択肢はなかった。
5月のイタリア北部にしては、ねっとりと蒸し暑い陽気だった。スタート直後、グリッド上で立ち往生したJJレートのベネトンに、ロータス・無限ホンダのペドロ・ラミーが追突。空中に舞い上がったマシンの破片の一部がフェンスを越え、何人もの観客がケガを負った。
「もういい加減にしてくれ」と思ったのは、僕だけではなかったと思う。それでもレースは続行され、再スタートから2周後、タンブレロコーナーでコントロールを失い、コンクリート壁に激突したセナは、あっけなく死んでしまった。
セナはなぜ人々を惹きつけてやまないのか
熱田の写真展には今も必ずセナが登場する 【(C)柴田久仁夫】
しかし少なくとも僕は、セナの走りを間近で見られるだけで十分に満足だった。ではセナの走りの何に、あんなにも惹かれたのか。
僕の他にも、セナに魅了された同僚がいる。F1フォトグラファーの熱田護だ。二輪世界選手権を追いかけていた熱田は、会社の依頼でそれまで全く興味のなかったF1を取材。そこでセナを知り、目が離せなくなり、F1へと完全にフィールドを移した。
つい最近、改めてセナの思い出を語り合う機会があった。熱田は、「セナは何か特別だった」という。その思いは僕も同じだが、では何が特別だったかといえば、お互いに何も言えなくなってしまう。しかし熱田に限れば、あれだけ情熱を傾けていたバイクの世界を捨ててまで、追いかけたくなる存在だったということだ。
あのイモラの日曜日、熱田はスタート直前のグリッドに向かった。セナを撮影して、すぐに他のドライバーを抑えに行くつもりだった。ところがその日のセナはヘルメットを前に置き、コクピットから降りない。「異様な表情で、一点をぼーっと見つめていた」と熱田は回顧する。
ファインダーいっぱいに迫るセナの顔が、「沈んだ表情のまま、こっちをじーっと見てる」。いたたまれなくなった熱田はカメラを下ろし、作り笑いをした。するとセナもニコッとうなづいてくれたという。この時熱田の撮った写真が、おそらくセナの最後のポートレイトとなった。
一方、僕がセナを思い出すのはモナコだ。セナが亡くなった直後のモナコGPで、マルボロ主催の恒例のディナーショーが開かれた。セナを追悼するその催しでは、正面の大スクリーンにマクラーレン・ホンダ時代のモナコで、ポールポジションを獲ったセナの車載映像が流された。ステアリングにHマークのついたマシンと格闘するセナの姿が、超高速で流れていくモナコの風景と一緒に映し出される。そこで初めて、僕はセナの死に涙した。