連載:日本代表選手のルーツを探る

三笘薫が日本代表の“ジョーカー”になるまで 小2で戦術を理解?スカウトが目にした芯の強さ

栗原正夫
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W杯出場を決めた3月24日のオーストラリア戦で2ゴールをマークした三笘 【写真は共同】

 昨年11月、カタールW杯アジア最終予選の敵地オマーン戦で、三笘薫(ユニオン・サン・ジロワーズ)は森保ジャパンで鮮烈なデビューを果たした。後半からピッチに立つと、左サイドから得意の高速ドリブルで何度もチャンスを演出し、伊東純也の決勝弾をアシスト。W杯出場を決めた3月24日のオーストラリア戦でも残り時間10分を切ったタイミングでの出場だったが、チームの全得点となる2ゴールをマークするなど、11月に開幕するW杯に向けて日本の攻撃の切り札となり得る可能性を示した。

 左サイドを主戦場に、持ち味の緩急をつけたドリブルは、海外移籍1年目となったベルギーでも存分に発揮されたが、そのプレースタイルはどのように形成されてきたのだろうか。

 小学1年生で初めて所属したクラブ、川崎フロンターレのジュニア時代の指導者やスカウト、また筑波大時代の恩師や同級生の証言をもとに“三笘薫”ができるまでをひも解く。

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小2で「攻守の切り替えの大事さを理解」

さぎぬまSC澤田秀治代表「(入部当時から)足下の技術が上手なだけでなく、攻守の切り替えができ、頭のいい子だった」 【写真:西村尚己/アフロスポーツ】

 三笘が小学1年生で初めて所属したクラブ、さぎぬまSC(神奈川県川崎市宮前区)の澤田秀治代表は、入部当時から「足下の技術が上手なだけでなく、攻守の切り替えができ、頭のいい子だった」と振り返る。

 小学校に入学したばかりの子が「攻守の切り替え?」と思うかもしれないが、澤田さんは三笘がまだ小学2年生だった頃の試合で、はっきりと覚えているシーンがあるという。
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著者プロフィール

1974年生まれ。大学卒業後、映像、ITメディアでスポーツにかかわり、フリーランスに。サッカーほか、国内外問わずスポーツ関連のインタビューやレポート記事を週刊誌、スポーツ誌、WEBなどに寄稿。サッカーW杯は98年から、欧州選手権は2000年から、夏季五輪は04年から、すべて現地観戦、取材。これまでに約60カ国を取材で訪問している

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