連載:キズナ〜選手と大切な人との物語〜

甲子園のチャンスは今年しかなかった 元プロ投手を父に持つ高校球児の挑戦

瀬川ふみ子

「父のようなプロ野球選手になりたい」

元・プロ野球選手を父に持つ帝京長岡高のエース・吉田行慶。父の背中を追いかけ、今、目指すものとは 【瀬川ふみ子】

「僕のお父さんってプロ野球選手だったんだ」

 そう気付いたのは、小学校に入ってからだったという。

 父の名前は、吉田篤史。

 新潟の日本文理高校からヤマハに進み、2年目のとき、都市対抗野球大会で優勝。19歳の若さで胴上げ投手となり、最優秀選手賞にあたる橋戸賞と、新人王にあたる若獅子賞のダブル受賞を果たした。高卒3年目の20歳のときも都市対抗で活躍し、ドラフト1位で千葉ロッテマリーンズに入団。プロでは現役13年間、先発、中継ぎなどで活躍した好投手だ。

 行慶が生まれた2002年は、千葉ロッテで現役。行慶が1歳のときに阪神タイガースに移籍し、2歳のときに現役を引退している。

 幼稚園に通うころには、横浜ベイスターズのコーチをしていたが、「お父さんの仕事とか気にしたことがなかったので(笑)」と行慶。小学校に上がり、「学校で、『お前のお父さんってプロ野球選手だったんだろ?』って、いろんな友達に言われて、あぁそうなんだって思ったんです」と振り返る。

 小学1年生のとき、2歳年上の兄が野球を始めることになり、行慶も兄についていく形で野球を始めた。

「お父さんに憧れて……ではなく、お兄ちゃんがやるから僕もやろうかなって」(行慶)

「プロ野球もそんなに見ていなかったし、野球のことも全然分からなかった」という行慶だが、学年が上がるうちに、少しずつ野球の面白さに気付いていく。

 父は、そんな行慶を見て、「投げるのは長男の方が上手かったんですが、体の強さと足の速さは次男坊(行慶)の方がある。バッティングも良くて、打つと飛ぶから楽しいようで、楽しいからまた練習してという感じで成長していきましたね」と当時を思い出す。

 少年野球時代は投打の両方で活躍。小学6年生の春、軟式から硬式の都筑中央ボーイズの小学生の部に移籍。そこではチーム事情でキャッチャーとなり、全国ベスト4入り。そのまま都筑中央ボーイズの中学生の部に上がると、半年後に再びピッチャーへ。好選手がそろうチームの中で、「エースになりたい、勝ちたい、日本一になりたい」という目標とともに、「将来はお父さんみたいなプロ野球選手になる」という気持ちが芽生えていった。

兄の影響で野球を始めた行慶(左)は徐々にのめり込み、元・プロ野球選手の父(奥)に憧れを抱くようになった 【写真提供:吉田篤史】

 そんなとき、父・篤史が、オリックス・バファローズのコーチを辞め、BASEBALL FIRST LEAGUE(現・さわかみ関西独立リーグ)に新しくできた和歌山ファイティングバーズの投手コーチになるべく和歌山へ行くことになった。それを機に、行慶はずっと過ごしてきた横浜の地を離れ、母、弟(三男)とともに和歌山へ行くことを決める。野球に対して貪欲になっている中、野球の手本であり教科書、そして最高の指導者でもある父のそばにいて、いろんなことを学びたいと思ったのだ。

「都筑中央ボーイズの指導者も元プロですごい方々ばかりだったのですが、やはり父の知識もすごかったので、高校に行く前に、父からもっと教わりたいと思ったんです」(行慶)

 中学2年生の終わりに横浜から和歌山の中学校に転校。和歌山の御坊ボーイズに入部して土日はそこで練習や試合をし、平日はネットスローやティーバッティングなど父が課したメニューをこなした。「こっちがやれやれと言わなくても自分でやっていましたね」と父が言えば、息子は「ここをこうするにはどうしたらいいか、と聞くとすぐ練習法を教えてくれるし、試合でこういうときはどうしたらいいか、と聞けばまた的確な答えを言ってくれる。父の近くで過ごした和歌山での一年は、すごく大きかったです」と行慶は話す。

 そんな中、当時、北海道日本ハムファイターズの関西担当スカウトをしていた芝草宇宙(ひろし)が、和歌山ファイティングバーズを訪れた際、「御坊ボーイズにいる息子さん、いいらしいですね」と雑談したことが縁で、行慶は芝草の母校、帝京高校へ進学することになった。

 父・篤史は和歌山ファイティングバーズとは1年契約。行慶が中学3年生になった年の冬には家族みんなで横浜に帰ることになっていた。行慶自身、寮生活より自宅から通える強豪校を望んでいたこともあり、ちょうど良かったのだ。

転校を決意、父の故郷・新潟へ

父・篤史(左)との和歌山での生活を経て、行慶(右)は名門校へ進んだが、そこで大きな試練が待ち受けていた 【写真提供:吉田篤史】

「お父さんは甲子園に行けなかったけど、僕は行く!」

 夢と期待を抱いて行慶は帝京の門をくぐったのだが……。環境に、馴染めなかった。

 1年秋からベンチ入りし、秋季東京大会で登板するほど期待もされていたが、毎日、少しずつ積もり積もっていったものが山となり、1年の終わりごろ、行慶は転校を決意した。

 転校先は、帝京の系列校でもある新潟の帝京長岡高校。新潟は父の故郷でもあり、今も祖父母や伯母が住んでいる。ゆかりがある場所というのも大きかった。また、もともと帝京を紹介した芝草がちょうどそのときから帝京長岡の外部コーチになることが決まり、帝京の前田三夫監督から芝草に「吉田の面倒を見てやってくれるか」との連絡もあり、この転校に至った。

 だが、高校球児にとっての『転校』は、小中学生のそれとは全く違う。高野連の規則により、一年間は公式戦に出られない。それでも行慶は「違う環境で野球がやりたかった」と言い、腹を据えて、その一年に臨んだ。

「それまで身の回りのことはすべて母にしてもらっていて、自分では何もできない中での初めての寮生活。不安もありましたが、将来的には自立するわけだし、これから生きていく上で、助けてくれる人がいない環境でやっていくのはいい経験になると思いました」と言う行慶に、父も、「これも経験だ。とにかく練習して、一人で勝ち抜けるように頑張っていけ」と言って送り出した。

 4月、帝京長岡に入ると、同時期に同じ学年の転校生がいた。浦和学院高校から来た西村俊亮だった。行慶はすごくホッとしたという。

「覚悟を決めてここに来たのは僕だけじゃなかった。一緒に過ごせる同志がいて、すごく心強いって思いました」(行慶)

 先輩たちや同級生は、とても優しく接してくれ、受け入れてくれたことも行慶は「ありがたかった」と話す。また、地元では、新潟出身で初めてドラフト1位でプロ入りした吉田篤史のことを知っている人は多く、「あの吉田篤史の息子かー! 頑張れよー!」と声をかけられることもあった。

「それまでは『お父さん、プロ野球選手なんでしょ』とか『吉田篤史の息子か』と言われることが煩わしかったり、面倒だなって思ったりすることもあったけど、父のおかげで応援してもらえることがありがたいと思えるようにもなりました」と行慶は言い、励みやモチベーションにもなっていった。

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