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キズナ
女子バスケ・吉田亜沙美、姉との絆
“嫌われている”と思っていた中学時代
現役続行を決め、今はJX-ENEOSサンフラワーズの一員としてチームをけん引する吉田
現役続行を決め、今はJX-ENEOSサンフラワーズの一員としてチームをけん引する吉田【写真:兼子慎一郎/バスケットボールキング】

 オリンピックイヤーの今年。母国開催となる特別な“夏の祭典”に再び挑もうとする選手がいる。それがJX-ENEOSサンフラワーズのポイントガードである吉田亜沙美だ。


 長きにわたり日本の女子バスケット界をリードしてきた吉田は、昨年の3月、シーズン終了後に一度ユニフォームを脱ぐ決意をした。


 しかし、それから約半年後の9月に現役続行を発表。その理由は明確で「東京オリンピック出場を目指す」というものだった。


 宣言後は急ピッチでの体作りとなったが、10月12日にはWリーグの公式戦に出場。11月には日本代表に復帰し、現在は東京オリンピックのメンバー入り争いの渦中にいる。


 引退から現役復帰という大きな決断――。その裏には吉田が「最初に相談した」という姉の上吹越沙織さんの存在が大きい。


 今回は吉田と沙織さんとの言葉を元に、2人の幼少期から現在までのエピソードや絆をお伝えする。

父が作ったミニバスチームに姉と入団

1月の皇后杯を制したJX-ENEOSサンフラワーズ。吉田もアグレッシブなプレーを見せた
1月の皇后杯を制したJX-ENEOSサンフラワーズ。吉田もアグレッシブなプレーを見せた【写真:伊藤大充/バスケットボールキング】

 1987年10月9日、東京都で生まれた吉田は、両親がバスケットをしていたこともあり、「土日になれば父か母の試合や練習についていき、そこが遊び場でした」という環境で幼少期を過ごした。そのため、生活の一部にバスケットがあり、自然とバスケットをするようになったという。


 3つ上の沙織さんもしかり。「小学校の授業よりも先にバスケットに出会っていました。父の試合を見に行って、途中からは試合のTO(テーブルオフィシャルズ)を手伝いながらルールを覚えていきましたね。見ることが楽しくて、ベンチから父と母のプレーを見たり、同じチームの選手を『この人すごいなぁ』と思いながら見たり。試合が終わればコートが空く短い時間でシュートも打っていました」と振り返る。


 沙織さんがチームに所属したのは小学校5年生の時。父・康行さんが沙織さんのためにミニバスのチームを作ったのがキッカケで、このタイミングで吉田も入団。小学校2年生の時であった。


 今や世界クラスの選手になった吉田だが、この時は「ガリガリで、リストバンドやヘッドバンドなどで格好はつけているけれど、ボールを持ったら私を探すような子でした」と沙織さんは言う。


 吉田の記憶も同じで、「私は格好から入っていた人。試合でもボールをもらったらドリブルはするんだけど、ディフェンスが来たら『まずい、お姉ちゃんを探さなきゃ』って、すぐにパスをしていました」と笑う。

中学では高校の姉とガチンコ勝負

幼少期から現在まで。姉との思い出に吉田の言葉も弾んだ
幼少期から現在まで。姉との思い出に吉田の言葉も弾んだ【写真:兼子慎一郎/バスケットボールキング】

「知らない人に会うとすぐに姉の後ろに隠れていた」という吉田は、水泳などの習い事でも、姉が中学進学のタイミングでやめると、一緒にやめてしまうほど、姉のマネをするのが大好きだった。


「当時の亜沙美はわりとそういうタイプだったんです。それに小学生の頃は、私は『姉』じゃないといけなかった。親が共働きだったので、親が朝早く家を出る時には朝ご飯の準備をしていましたし、亜沙美は嫌いなものを残すから、それを私が食べて。だから私は単純に『お姉ちゃん』なんですよ」と沙織さんは語る。


 その沙織さんが小学校を卒業し、ミニバスのチームを退団。だが、吉田は他の習い事とは異なり、バスケットだけはやめることはなかった。それどころか、父の高校の先輩にあたる小鷹勝義氏が指導する千葉県の中山ミニバスへ電車を乗り継いで通うこととなる。


「なんですかね。それ以前に姉へ中山ミニバスの誘いがあったのですが、姉は断っていて。そうしたら『じゃあ、私が行きたい』って言ったんですよ。その頃、もっと強いチームでやりたいという思いがあったから、行きたいと感じたんだと思います」(吉田)


 これが吉田のバスケット人生の中で最初の転機となる。


「中山ミニバスを見学したのは4年生の終わりだったと思います。『中学生ですか?』というぐらい、一緒に行った母も衝撃を受けていました。こんなにうまい子たちがいるんだと思いましたね」


 それでも、その中で徐々に力を付けていった吉田は、千葉県や関東の大会などでその名をとどろかせていくようになる。


 そして小学校を卒業後は、強化を図っていた東京成徳大学中学へ。時を同じくして沙織さんは伝統校である東京成徳大学高校に進学した。


 東京成徳大学の中学校と高校は、最寄り駅こそ同じだが、普段バスケット部が練習する体育館は異なる。しかし、当時は定期的に中学と高校とで合同練習を行っていたため、高校生の姉と中学生の妹がしのぎを削る機会は何度もあった。


 どちらも負けず嫌いの性格。練習で1対1をする場面があれば、最後はケンカさながら。高校で指導に当たっていた下坂須美子コーチからはよく「姉妹のケンカは家でやって」と言われていたそうだ。


 プレーでは激しくやり合っていたものの、互いに「ライバル心はなかった」という2人。だが、この頃の姉妹の立場は少し異なっていて、吉田は中学2年生の時にはスターターとして全国大会に出場。優勝の一翼を担う存在であった。一方の沙織さんは、名門校ならではの激しいポジション争いの真っただ中で、試合の出場機会も思うように得られないでいた。


「私は試合に出ているけど、姉は試合に出ていない時もあった。だから『姉は私のことをあまり良く思っていないんだろうな』と、中学生ながらに思っていたんです。中学と高校だと生活の時間帯が違うこともあって、あの頃はあまり2人で話をしたというのはなかったですね」と吉田は言う。


 思うようにいかない中で苦しんでいた姉。中学生との合同練習の際には「姉としてしっかりとした姿を見せるように」というコーチからの言葉も重なり、それまでとは少し違った接し方になっていたのかもしれない。少しずつ2人の関係に変化が生じると、ある時から吉田が『お姉ちゃん』と呼ばなくなったという。

田島早苗(バスケットボールキング編集部)

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