未来からのメッセージ。ヴゼットジョリー「競馬巴投げ!第134回」1万円馬券勝負
幸運は自力で取るものか、与えられるものなのか
[写真1]連勝中のアリンナは同型との兼ね合いが鍵 【写真:乗峯栄一】
一方、近づいてくるのはクリスマスだ。これも必ず年の瀬にやってくる。年の瀬にやってくるが、これはどちらかというと“幸運を与えてくれる”ムードがある。
今年なんか、クリスマスの日が有馬記念だ。幸運というのは忠臣蔵のように自力で(命までかけて)取りに行くものなのか、あるいは真面目にやっていればサンタクロースがトナカイのソリかなんかでやってきて与えてくれるものなのか。どっちなんだろう。
「シティ・オブ・エンジェル」という映画を見るたびに
[写真2]サトノアリシアは巻き返しの一戦に 【写真:乗峯栄一】
この映画では“エンジェル”はどういう訳か、みな中年男だ。でっぷり太って心臓病煩っているのにアイスクリームばかり食っていたり、よれよれの黒マントを羽織って泣きそうな顔をして瀕死の人間のそばに張り付いていたりする。ぼくが瀕死の患者なら「おっさん、寄ってくんなよ、縁起悪い」と怒鳴りたくなる風貌だ。日本ではエンジェルではなく“死神”や“疫病神”と言った方がいいように思えるが、でも「西洋のエンジェル」はこれでいいんだろうか?
日本では年の瀬といえば、死を覚悟して自力で好結果を取りに行くものだが、西洋では何となく幸運が舞い込んでくる季節である。それと同じように、エンジェルは日本では森永キャラメルに載っているように背中に羽の生えたかわいい赤ちゃんの風貌だが、西洋では頭が禿げて、口髭を生やしたおじさんだったりする。いつも両様を受け入れる準備をしておかないといけない。
ニコラス・ケイジのエンジェルも思いっきり貧相だ。汚いコートを着て、図書館の本棚の陰からじっとメグ・ライアンを見ている。ほとんど屈折陰湿のストーカーだ。
女医のメグ・ライアンがたまらず「仕事は何?」と聞くと、ニコラス・ケイジは「メッセンジャー」とボソリと言う。
「ああバイク便の?」
「いや、違う、つまり神の」
ニコラス・ケイジはそう言ってメグ・ライアンに苦笑される。苦笑されても相変わらず、ニコラスは泣きそうな顔をしているだけだ。
エンジェルが「人間になりたい」
[写真3]シグルーンはGIのここでも先行力を生かしたい 【写真:乗峯栄一】
最近になって、この「ベルリン・天使の詩」も見た。ナスターシャ・キンスキー(我が青春時代の憧れの女優だ)主演の「パリ、テキサス」の監督ヴィム・ヴェンダースが西ドイツに帰って撮った映画である。
「パリ、テキサス」も途中で寝てしまったが、「ベルリン・天使の詩」も途中で寝た。ヴィム・ヴェンダースという監督はとにかく客を寝させる。しかし途中で寝たからといってダメな映画かというと、そうではない。ダメな映画ではないが、そうワクワクするということもない。映画見て寝てしまうというのはそういうことだ。
ヨレヨレのコートに手を突っ込んだ中年男のエンジェル二人が、詩の一節のようなことを交互に掛け合いで呟きながらベルリン郊外の川や森をだらだら歩く。そりゃ、「寝るな」って言う方が無理だろ。
[写真4]抽選を通った強運を生かすかジャストザマリン 【写真:乗峯栄一】
「シティ」の場合はエンジェルのニコラス・ケイジが女医のメグ・ライアンに、「ベルリン」の場合は天使ダミエルがサーカスの女曲芸師マリオンに惚れて、「人間になりたい」と呟く。ここの設定は、二つの映画、全く同じだ。
「シティ」の場合は人間になったニコラス・ケイジがメグ・ライアンと郊外の別荘で幸せな一夜を過ごしたあと(元エンジェルのセックスはまるっきり初体験のはずなのに、けっこう“ステキよ”になったりして、ここは大いに不満だ。“ごめん、昨日までエンジェルやってたから、こんな所にこぼしてしまった”とか言って頭掻けと言いたい!)、翌朝自転車でパンを買いに行ったメグ・ライアンがダンプカーにはねられてあっさり死ぬ。しかし訪ねてきたエンジェル仲間にニコラス・ケイジが「たとえ一夜でも人として生きられたことの幸せ」を語るところで映画が終わる。
「ベルリン」の場合はマリオンの空中ブランコ練習のときに支え綱を持ったりして、元天使が“ヒモ”のごとく甲斐甲斐しく嫁さんを支えるところで終わる。
それまでの全編の明るさ暗さとは逆に「シティ」は死別、「ベルリン」は将来への展望で締めくくられる。