宝石職人ジュエラーの大駆け 「競馬巴投げ!第119回」1万円馬券勝負

乗峯栄一

高野山ふもとの天野の里という小さな村

[写真1]チューリップ賞を勝ったシンハライト、桜花賞でも有力候補の1頭だ 【写真:乗峯栄一】

 大峰山系に源を発し、紀伊水道に注ぐ紀ノ川の、その中流域、ちょうど高野山と不動谷を挟んで反対側の場所に天野の里という小さな村がある。

 紀ノ川沿いの国道を南に折れて、高野山の脇侍(きょうじ)のようにひかえる雨引山の尾根をくねくねと30分ほど上り下りすると、急に田畑が開ける。その小さな盆地が天野の里だ。ほんとに小さな集落だが歴史は古い。

 高野山は開山当初から女人禁制とされてきた。愛する夫や恋人が不意にこの世と隔絶し高野入山を果たしたとき「自分も共に出家を」と願い、とりすがる女たちが、しかし高野入山は許されず、途方にくれ、失意のうちに髪を下ろして自給自足の半生を送った場所だと言われている。

紫電改の名パイロット

[写真2]ジュエラー(左)の強烈な脚、根性に期待! 【写真:乗峯栄一】

 太平洋戦争末期、海軍のゼロ戦(三菱重工業生産)がアメリカ・グラマンの性能に追いつかれ、何としても新式の戦闘機が欲しいというとき、関西の川西飛行機(現在の新明和工業)が製作していた「紫電」を改良して「紫電改」という高性能攻撃機を急遽量産することになった。その試験飛行のために、どうしても飛行場が必要ということになり、鳴尾工場の横の競馬場をつぶして大きな滑走路を作る。これが戦前の鳴尾競馬場がなくなった理由だが、戦争が終わると「川西飛行機」改め「新明和工業」は仁川の広大な飛行機工場跡地を「鳴尾競馬場の跡地に」と提供することを申し出た。これが今の阪神競馬場である。

 この新型戦闘機・紫電改の名パイロットに佐藤康清という天野出身の海軍中尉がいて、四国松山上空でのグラマンとの空中戦の末に戦死したと言われている。この佐藤中尉はあの西行法師の末裔でもあるという噂があり、調べに行ったのが天野の里を訪ねた動機だった。

 佐藤中尉の実家は天野の里のさらに奥、星山という急峻な斜面にへばりつくように建っていた。吉野杉の下枝切りなどの林業と、痩せた土地にソバを栽培し、ニワトリを飼う半林半農の生活である。中尉の妻も既に亡くなっていたが、息子さんが色々と話してくれた。

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著者プロフィール

 1955年岡山県生まれ。文筆業。92年「奈良林さんのアドバイス」で「小説新潮」新人賞佳作受賞。98年「なにわ忠臣蔵伝説」で朝日新人文学賞受賞。92年より大阪スポニチで競馬コラム連載中で、そのせいで折あらば栗東トレセンに出向いている。著書に「なにわ忠臣蔵伝説」(朝日出版社)「いつかバラの花咲く馬券を」(アールズ出版)等。ブログ「乗峯栄一のトレセン・リポート」

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