平山相太が目指す監督像は「指導者=教育者」=単独インタビュー

平野貴也

仙台大の監督に就任する平山。2月から指導を始める 【筆者撮影】

 いよいよ「平山相太監督」が始動する。平山は、かつて国見高校のエースとして全国高校サッカー選手権で2年連続得点王になるなど「怪物」と呼ばれる活躍を見せた長身FWだ。海外クラブやFC東京、ベガルタ仙台でプレーし、日本代表にも選ばれた経歴を持つ。

 2018年の引退後は、仙台大学に入学。学生として学ぶ傍ら、サッカー部でコーチとして指導を始めた。大学卒業後は、筑波大学の大学院へ進み、ここでもサッカー部でコーチを務めた。そして24年、仙台大学で監督に就任する。

 1月16日、平山新監督は、2年ぶりに仙台大学のグラウンドを訪れた。雪がちらつく中、ダウンに首をすぼめて「まだ、身体がこの寒さに慣れていない」と苦笑いを浮かべていた。しかし、この日から合同自主練習を始めた選手とコミュニケーションを取ると、たちまち表情が柔らかくなった。

 3年前、コーチを務めていた時期から在籍している選手もいる。再び仙台の地に戻り、初めて監督として活動する背景には、どんな思いがあるのか――。現地で話を聞いた。

――2年ぶりに仙台へ戻って、どんな心境ですか?

 いよいよだな、という感じがします。仙台大に戻ってくることが昨年に決まりましたが(発表は24年1月)、年が明けて、今こうして大学に来て、いよいよ今年から新しい人生が始まるなという気持ちです。今日は、様子を見に来て選手にはあいさつをしただけですが、2月からは指導を始めます。まだ、監督になるプレッシャーは感じていなくて、今は、どうやって仙台大サッカー部を全国で勝たせるか、そのルート、方法を考えています。

――平山さんの指導者キャリアは、仙台大のコーチから始まっていますが、元々はプロの指導者を目指していたと聞きました。なぜ、引退してすぐにプロクラブで指導を始めず、仙台大に入学して、学生として学ぶことにしたのですか?

 プロ選手だった25~26歳のときに、何人かのプロ監督と一緒に仕事をする中で、彼らの立場に立ってみたいと思ったのが、引退後に指導者を目指すきっかけでした。当時は、プロの監督だけをイメージしていて、学生の指導をしようとは考えていませんでした。引退してすぐにプロクラブのスクールやアカデミーで指導を始める人もいますが、区別化するためにも、何か違うことをやらなければいけないと思っていました。感覚的にですけど、サッカーをする側(選手)に必要なことと、他人に指導をするのに必要なことは、まったく別の物だとも思っていました。

 でも、自分はサッカーのことしか知らない。だから、指導者に何が必要か、それをどうやってサッカーに生かすかを勉強して、知識として持つことができれば、区別化をできるのではないかと考えました。それに、筑波大学を途中で中退していたので、大学で学び直そうと思ったのが、仙台大に入学したきっかけでした。

指導者には学びが必要――恩師・小嶺先生の影響

小嶺監督の指導は、引退後の平山にも影響を与えている 【写真:川窪隆一/アフロスポーツ】

――サッカーのことは知っているのに、指導者になるには学びが必要だと考えたところが興味深いです。学生時代の教えが影響していますか?

 小嶺(忠敏)先生の指導による影響は、かなりあると思います。国見高校での3年間は、必死にサッカーばかりに取り組んでいましたけど、小嶺先生の話は、サッカーの中身ばかりではなくて、物事を人生の中で捉える話が多かったです。人生80年――サッカーは、人生の一部に過ぎないという話は、ずっと聞かされていましたし、影響を受けていると思います。

――国見高からプロへ進まず、筑波大へ進学したのも、小嶺先生の影響ですか?

 うーん、それもありますけど、そもそも高校のときは、自分がJリーグでプレーするイメージを持てずに過ごしていました。(高校1年からチームでは主力だったが)高校3年生でU-18日本代表に入って、2003年の第1回仙台カップ国際ユースサッカー大会に来たことがありますし、その後は、飛び級でU-20日本代表に呼んでもらいましたけど、3年生になるまでは、世代別の日本代表にも入っていませんでした。身長は小学生の頃からずっと大きかったですし、自分自身に期待もしていましたけど、高校1年のときは、心が折れましたね。U-16日本代表は候補止まりでしたし、合宿でのプレーがダメ過ぎて、試合に出られずにラインズマンをやらされていました。だから、高校でずっと自信を持ってプレーできていたわけではありませんでした。

知りたかった、プロ監督の気持ちの裏側

大学指導者を目指した経緯を明かした平山 【筆者撮影】

――高校時代は、大きな注目と期待を集めていましたが、ご自身の手応えは少し違うものだったのですね。高校卒業後、筑波大を中退してプロ選手として活動しました。その中で、プロの監督がどういうプレッシャーを感じているのか気になったことが、プロの監督、つまり指導者に興味を持ったきっかけなんですよね?

 そうですね。プロの監督に興味を持ったのは、試合の次の1週間の浮き沈みが、めちゃくちゃ大きかったからです(笑)。勝った翌週は上機嫌だけど、負けた翌週は、監督の目が血走っていて、ピリピリしているのが、すぐに分かるくらい。ミーティングも長くなる。まったく編集していない、負けた試合の映像を延々と見せられて「どうだ、分かるか。ひどいプレーだろう」と言われたこともあります。選手は、試合に負けて悔しい思いはしますけど、そこまで強く引きずることはあまりなく、次の試合に向かうエネルギーにしていく印象。でも監督という立場の人は、ある程度は意図的なのかもしれませんが、1試合での浮き沈みが激しくて、どういう気持ちなのだろうと思っていました。

――指導者になってから、その気持ちは分かるようになりましたか?

 自分が知りたかったものとは多分違うと思いますけど、勝敗の責任を負う重さは感じましたし、難しさも分かりました。実際に指導する立場になると、自分のことでも、ほかの監督が批判されている場合でも「いや(外から)言うのは簡単なんだよな~」と思うようになりました(笑)。自分が選手のときは、もっとああすれば、こうすればなどとも思いましたが、そんなに簡単ではありません。指導する立場の人は、外から見る人の何倍も考えているものですし、抱えている大変さも気持ちの強さも全然違います。

 指導を始めて間もなく、仙台大でコーチをやっていたときに、東北社会人リーグ1部を戦っているセカンドチームのヘッドコーチをやらせてもらったのですが、本当に難しかったです。「この試合なら、あの選手を起用するといいだろう」と思い、就職活動などであまり練習に参加できていないけど一番上手な選手を起用したのですが、負けました。いつも一生懸命に頑張っている選手たちの「なんで、アイツがここで出てくるんだよ」という雰囲気を感じて、マネジメントの難しさを知りました。ほかのカテゴリーに行っても、筑波大に行ってからコーチをしたときも、チームマネジメントが一番大変だなと感じました。でも、学生を指導するようになって、プロの指導者は楽な方を選んでいる部分もあるのではないかと思うようにもなりました。

――どういうことでしょうか?

 選手だったとき、プロの監督は、選手を救うことがあまりないなと感じていました。自分は、試合に出られないときなど、なぜ何のサポートもないのだろうと思ったこともあります。自分は、理由を聞きに行くタイプではありませんでしたけど、試合に出られない時に「なぜだ」と聞きに行くタイプの選手もいます。でも、どちらかと言うと、言いに行っても切り捨てられてしまうイメージを持っていました。

 監督も(勝負に)人生がかかっています。勝つか負けるかでクビになることもあります。でも、あまりにも、そこに執着し過ぎているとも思います。自分の中には「指導者=教育者」というのが、根底にあります。選手を引き上げるのが監督の仕事でもあると思っていて、プロの監督は、そこに関しては楽をしているなとも思うようになりました。

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著者プロフィール

1979年生まれ。東京都出身。専修大学卒業後、スポーツ総合サイト「スポーツナビ」の編集記者を経て2008年からフリーライターとなる。主に育成年代のサッカーを取材。2009年からJリーグの大宮アルディージャでオフィシャルライターを務めている。

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