高校選手権4度Vの名将・布啓一郎氏が語る 市立船橋での20年とその後

栗原正夫
 1983年から20年、千葉県の船橋市立船橋高校を率いて高校サッカー選手権で4度優勝。その後は日本サッカー協会技術委員などを経て、15年以降はザスパクサツ群馬、松本山雅FC、FC今治などのJクラブの監督を務めてきた布啓一郎氏(63)。直近では22年からの2シーズン、Jリーグ百年構想クラブで関東1部リーグのVONDS市原を率い、23年はリーグ制覇を果たした。しかし、最大の目標だったJFL昇格は叶わず、同年限りでクラブを離れることになった。

 24年はAC長野パルセイロ(J3)でヘッドコーチを務めることになった布氏に、市立船橋時代の話から高体連の指導者からプロの指導者へと進んだ経緯について聞いた。

40年前とほぼ変わらない地域CL

23年はVONDS市原を率いた布氏。24年からは長野パルセイロのヘッドコーチに就任 【栗原正夫】

 23年、布氏が率いたVONDS市原は関東1部リーグで3度目の優勝を遂げた。

 ポストシーズンの全国地域サッカーチャンピオンズリーグ(以下地域CL)では1次ラウンドを2勝1敗としワイルドカードで決勝ラウンドに駒を進め、2位でJFL15位の沖縄SVとの入れ替え戦に臨んだ。

 しかし、沖縄SVとのアウェイでの一発勝負の試合で、延長戦の末に1-2と敗れ、悲願のJFL昇格は逃した。

「関東1部は過酷で、拮抗したリーグです。そこで優勝できたことはうれしかったですし、選手の成長も感じることができました。ただ目標だったJFL昇格は最後のところで叶いませんでした。最後の1試合は、私自身の力不足。サッカーはどれだけやってもわからないというか、改めて難しさを痛感しました」

 地域CLは全国に9つある地域リーグからJFL昇格をかけて争う大会。クラブが将来的なJリーグ参入を目指すうえで最も過酷な関門と言われている。日程も23年は1次ラウンドは3日間で3試合、決勝ラウンドも5日間で3試合という厳しさだった。加えて、22年までは決勝ラウンドの上位2チームがJFL昇格となっていたが、23年はJFL下位チームとの入れ替え戦が実施されることでもハードさが増していた。その点には布氏も苦笑いを浮かべた。

「私も現役時代、40年ほど前に千葉県の教員チームで地域CLの決勝ラウンドに出たことがあります。そのときからほとんどレギュレーションは変わっていないですからね(苦笑)。本当は勝ち抜いて意見できればよかったのですが……。負けたから恨み節を言うわけではないですが、プレーヤーズファーストという視点に立てば、今後やり方は検討すべきだと思います」

大敗からのスタート。初優勝で安堵した

 布氏が市立船橋を率い黄金時代を築いた83年から02年といえば、まだ日本にプロリーグがなかった時代からJリーグが誕生し、日本サッカーがプロ化へと舵を切ってきた時代と重なる。

「私が83年に市立船橋で指導者を始めた頃は、日本リーグ(JSL)はありましたが、まだアマチュアの時代でした。高校選手権の華やかさもいま以上で、そこが一番の大きな目標。私自身、若かったですし、無我夢中でやっていたというのが事実です。3年目の85年度に初めて選手権に出てたときは、3回戦で手倉森兄弟(誠、浩)のいた五戸(青森)に1-5、翌年も初戦で国見(長崎)に0-5と敗れたところからのスタートでした。その後は、何度か国立(ベスト4)に進みながら優勝にはあと一歩届かなかった。そういう意味で、94年度の森崎嘉之、鈴木和裕、茶野隆行らの代で初優勝できたときは正直ホッとしたというのが本音です。心のどこかに『自分はずっと勝てないのか』という不安みたいなものがありましたからね」

 ただ1度優勝したあとは、心にゆとりも出て、また日本サッカーがプロ化していくなかで指導に変化が出てきたという。

「最初は勝たなければいけないというプレッシャーが大きかったですが、94年度に1度優勝し、2年後に北嶋秀朗の代でも勝てた。その後は生意気を言わせてもらえれば、勝敗がどうこうよりも高校選手権はあくまで通過点で選手にも『目標はここではない』ということを強調していました。もちろん、力量的に高校サッカーが最終目標になる生徒もいましたが、プロに進む選手も出てきたなか選手の完成形を見据え、ユース世代で何をやらせるべきかということが私のテーマでもあり、選手たちに問いかけていた部分だったと思います」

帝京戦での大逆転負けから学んだこと

市立船橋を率いて高校サッカー選手権で4度優勝するなど黄金時代を築いた 【写真:川窪隆一/アフロスポーツ】

 市立船橋といえば、堅守速攻。そんなイメージがメディアを通し、先行した。だが、布氏はサッカーを攻撃と守備、つなぐチーム対蹴るチームなどと二色にわけること自体がナンセンスだと強調する。

「私のサッカーの哲学に、1試合で3失点というのはありえません。つまり、4対3でも勝てばいいという考えはないということです。なかにはそれを好む指導者もいますし、それはそれで問題ないと思っています。

 堅守というと、どうしても後ろに人数をかけて守るイメージがあります。ただ、どんないいチームでも、戦況に合わせて前から奪いに行くときはラインを高くしますし、引いて後ろに人数をかけてブロックを作るときはラインが低くなるものです。私としては育成年代では、全員が攻守にハードワークするサッカーを体に染み込ませる必要を感じていましたし、攻撃の選手にも守備、守備の選手にも攻撃のタスクを与えていました。もちろん、個性を伸ばすという点では、自由にやらせることも1つの手だというのは理解しています。

 私が率いてきたチームはいつも守備重視のように言われてきました。ですが、99年度にGK黒河貴矢、DFに羽田憲司や中澤聡太らがいて無失点で3度目の優勝をしたときも、6試合で15点取っています。94年度に初優勝したときも決勝の帝京戦(東京)は5-0、準決勝の奈良育英戦(奈良)は3-0だったのに、なぜかそこについてメディアは触れてくれませんでしたよね(笑)」

 20年のキャリアで、高校選手権4度、インターハイ4度の優勝は、他の多くの名将と比較しても、群を抜く。キャリアでターニングポイントになった出来事などはあったのだろうか。

「91年度の国立での準決勝で、1-0とリードしながら松波正信や阿部敏之らのいた帝京に残り約3分で2点を取られて逆転されたことは、サッカーの厳しさを知った試合でもありました。たとえば96年度の北嶋の代の決勝の相手は、中村俊輔のいた桐光学園(神奈川)でした。その試合は2点を先行したものの、5年前の帝京戦のことが頭にあってか、残り5分になっても『また追いつかれるんじゃないか』と最後までまったく勝てる気がしませんでしたから。

 また、その決勝ではそれまで6ゴールで得点王争いのトップに立っていたFW日下亮を使っていないんです。非情に思われるかもしれないですが、桐光学園の3バックに対し、北嶋との2トップにはもう1人のFWで班目岳のように走れる選手の方が(相性が)いいと思ったからです。結局、日下をずっとベンチに置いたまま1試合使わず。北嶋が決勝で1ゴールしたので、最後は2人とも6点で得点王にはなりましたが……。勝つために何が必要かはとことん考えないといけない。それは、あの帝京戦の逆転負けで学んだことかもしれません」

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著者プロフィール

1974年生まれ。大学卒業後、映像、ITメディアでスポーツにかかわり、フリーランスに。サッカーほか、国内外問わずスポーツ関連のインタビューやレポート記事を週刊誌、スポーツ誌、WEBなどに寄稿。サッカーW杯は98年から、欧州選手権は2000年から、夏季五輪は04年から、すべて現地観戦、取材。これまでに約60カ国を取材で訪問している

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