連載:日本代表選手のルーツを探る

ガンバユースへの昇格が叶わず東山高へ 鎌田大地はそこで何を学び、どう覚醒したのか?

栗原正夫
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ガンバ大阪ジュニアユースでは井手口らと同期だった鎌田(写真) 【写真提供:鎌田幹雄さん】

 昨年9月にスタートした2022年カタールW杯アジア最終予選。第1節・オマーン戦にトップ下として先発した鎌田大地(25歳)は、チームが第3節・サウジアラビア戦で2敗目を喫すると、森保ジャパンがそれまでの[4-2-3-1]から[4-3-3]に布陣を変えた煽りを受けてポジションを失った。

 6月の4連戦では約半年ぶりに代表に復帰し[4-3-3]でもプレー可能なところを示したが、その後押しとなったのがフランクフルトの一員として臨んだヨーロッパリーグ(EL)での躍進だった。鎌田はレンジャーズとの決勝におけるPK戦で3人目のキッカーを務め成功させただけでなく、チーム最多の5ゴールで優勝に貢献。2021-22シーズンのヨーロッパで最も結果を残した日本人選手として、代表復帰のチャンスを手にした。

 中学時代はガンバ大阪ジュニアユースで過ごすもユースに昇格できず、プロ入りまで世代別代表とも無縁だった。一方で、キャリアの節目では「出会いに恵まれ」、約4ヶ月後に迫ったカタールW杯でも中盤の重要なピースとして期待されるまでになった。果たして鎌田は選手としてどのような成長を遂げてきたのか、関係者の証言でひも解く。

ボールが入ってナンボの選手だった中学時代

 愛媛県伊予市で生まれた鎌田がサッカーを始めたのは3歳の頃だった。地元の強豪クラブであるキッズFC(現ゼブラキッズ)で頭角を現すと、中学入学に合わせて大阪府岸和田市の母方の祖母宅に身を寄せ、ガンバ大阪ジュニアユースの門を叩いた。同期には先に日本代表入りを果たす井手口陽介(セルティック)らがおり、昇格を見送られる挫折を経験した。

 当時ガンバ大阪ジュニアユースでコーチを務めていて、鎌田が恩師の1人に挙げる梅津博徳さん(現横浜Fマリノス・ジュニアユース監督)はこう話す。

「攻撃が好きで、冷静さがあって、ノールックのパスを出したり遊び心があるプレースタイルは当時のイメージのままです。決して運動量が多いタイプではなかったですが、いい立ち位置をみつけて、そこから出すスルーパスなどは他の選手と比較しても光るものがありました。

 ただ、中学時代の体の成長は人それぞれで、大地はケガがあったり、同期に陽介(井手口)もいたりして完全にレギュラーを取れていたかといえば、そうではなかった。センスはありましたが、分かりやすくいえばボールが入ってナンボの選手。僕は大地が中2に上がるタイミングでユースへ異動になってしまいましたが、クラブとしては他の選手との競争のなかで、守備も含めトータル的な判断として昇格を見送ることになったんだと思います」

 中学入学時に150センチだった身長は3年間で約25センチも伸びた。鎌田は急激な成長により身体のバランスが崩れる「クラムジー」を引き起こし、毎年のように手や腰を骨折。ジュニアユース時代は年に2、3カ月は練習を休まざるを得ないなど、苦しい時期を過ごしてきた。

課題を克服した京都・東山での3年間

東山は鎌田が3年になる代に初めてプレミアリーグに昇格した 【写真提供:東山高校】

 高校は京都の東山に進学。冬の高校選手権には一度も出られなかったが、そこで学んだことは少なくなかったはずだ。

 かつて京都パープルサンガなどでプレーし、初芝橋本時代には酒本憲幸(セレッソ大阪アンバサダー)や金明輝(前サガン鳥栖監督)らを指導した東山の福重良一監督に、当時の鎌田の様子を聞いた。

 福重監督は、鎌田の父・幹雄さんの大阪体育大学の1学年後輩に当たる。鎌田との出会いはちょうどガンバユースに上がれるか上がれないかという時期だったそうだ。
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著者プロフィール

栗原正夫

1974年生まれ。大学卒業後、映像、ITメディアでスポーツにかかわり、フリーランスに。サッカーほか、国内外問わずスポーツ関連のインタビューやレポート記事を週刊誌、スポーツ誌、WEBなどに寄稿。サッカーW杯は98年から、欧州選手権は2000年から、夏季五輪は04年から、すべて現地観戦、取材。これまでに約60カ国を取材で訪問している

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