ティモンディ前田が語る済美・野球部時代「高岸と新発売のグミを見るだけで幸せだった」

吉田治良

現在はお笑いコンビ「ティモンディ」のツッコミ・ネタ作り担当として幅広く活躍する前田さんが、済美・野球部時代の思い出を語ってくれた 【YOJI-GEN】

 現在人気急上昇中のお笑いコンビ「ティモンディ」の前田裕太さんは、高校野球の強豪、愛媛・済美高の野球部出身だ。ここでは、同級生で相方の高岸宏行さんとともに厳しい練習に耐えた3年間を振り返ってもらい、さらに頭脳明晰で芸人きっての高校野球通として知られる彼に、今春のセンバツを総括し、夏の甲子園の展望までしていただいた。エピソード満載のロングインタビューをお届けする。

ラグビーボールを叩きつけて未来を読む?

──中学時代は有名な選手だったんですよね?

 はい、中学が人生のピークみたいな(笑)。ボーイズリーグの関東選抜に選ばれたりもして、高校進学時には地元・相模原の強豪、東海大相模など12校くらいから声を掛けていただきました。ただ、激戦区の神奈川だと甲子園に行くのは難しいし、プロのスカウトの目にも留まりにくい。だったら県外かなって。でも僕らの代の東海大相模、甲子園に行ってるんですよね。ミスりましたね、完全に(笑)。

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──愛媛県の済美を選択した理由は?

 ちょうど将来はプロになりたいって思い始めた頃に、センバツで初出場初優勝、夏の甲子園で準優勝(いずれも2004年)するのを見てましたからね。(14年に)亡くなられた当時の上甲(正典)監督からも、「俺が甲子園に連れて行くっていう気持ちがあるなら来てほしい」って言われて。でも聞いた話によると、入ってきた部員全員に言ってたらしいですけどね(笑)。

──男女共学になったのが02年で、部の歴史自体は浅いですよね?

 僕らが7期生と言われる代でしたね。1期生の鵜久森(淳志/元日本ハム、ヤクルト)さんや、2期生の福井(優也/現楽天)さんとか先輩方の話を聞くと、1、2年生の頃は春も夏もほぼ1回戦負けだったらしいんですけど、それでも宇和島東を(1988年の)センバツ初出場初優勝に導いた上甲監督に従っていれば、自分たちも絶対に甲子園に行けるって信じてたそうなんです。練習量で自信を担保させていたというか、「これだけ練習してたら行けないはずがない」って。そして実際、先輩たちは甲子園に行って、センバツで初出場初優勝の快挙を達成するわけですからね。

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──やはり練習は厳しかったですか?

 寮生活だったんですが、朝はだいたい5時とか6時に起きて朝練をして、夜は11時とか11時半ぐらいに帰ってきて、1年生の頃はそこから上級生の洗濯や掃除。先輩たちを待って風呂に入って、結局寝るのは早くて深夜2時過ぎでしたね。

──済美独自の練習ってあったんですか?

 めちゃくちゃありましたね。たとえば2人一組で片方がラグビーボールを地面に叩きつけて、もう片方が取る練習。楕円球なんで、どこに飛ぶか分からないじゃないですか。でもそれで取れなかったら、「未来を読め―!」って怒られる(笑)。もはや予知能力ですよね。

 あと、「お前たちは時間の感覚がない」からって、目をつむって10秒経ったと思ったら手を挙げる練習。これを全員が合うまで、2、3時間ずっとやり続ける。はたから見ると怖い集団ですよね。それで結局はそろわないものだから、せめて体感スピードだけでも合わせようと監督が言って、最後はみんなでひたすら三三七拍子をやり続けたり(笑)。

──おかしな練習だとは思わなかった?

 今思えば訳が分からないですけど、当時はなんの疑問も持たなかったですね。それに上甲監督は勝負勘がすごい人で、やることが本当によく当たったんです。たとえばランナーなしでエバース(バントの構えからバットを引いて投球を見送る動作)をさせて、2ストライクになったのに3球目もエバースをさせると、それが必ずボールになる。次に「絶対打て」ってサインが出たから打つと、サードが無意識に前に出ていて、普通は抜けないところを抜けていくとか。

──心から信頼しきっていた?

 そうですね。でも、当時の上級生の先輩が、あまりの理不尽さに1週間くらい練習をボイコットをしたことがあったんです。帰ってきたら、罰として1ヶ月ほどボールを握らせてもらえなかったんですけど、ただ監督は、それくらい反発心のあるやつの方がいいって思ってた節はありましたね。

 監督は「お前らの代」とか「お前らのチーム」という言葉をよく使っていましたが、あえて自分との対立構造を作って、「俺たちのチームだ」っていう意識を僕たちに植え付けたかったのかもしれません。だからわざと理不尽なこともやらせていたのかなって。

──センバツで優勝投手になった福井選手などは、どうだったんでしょうね。

 監督に言われたことも、納得がいかなければ全然聞かなかったらしいですよ。すごくないですか、高校生で。鵜久森さんもそうだったみたいですけど、やっぱりプロに行く人って、ただ監督の指導に浸されるんじゃなくて、いいところだけを吸収する力があるんですね。僕とか(同級生で相方の)高岸は、なんの疑いもなく三三七拍子をやってましたけど(笑)。

ベンチプレス40キロが上がらなかった安樂

13年センバツで実に772球を投げ、済美を準優勝に導いた安樂。意図的に筋肉を付けすぎないようにしていたという彼も、“考える力”を持っていた 【アフロ】

──当時の選手で、プロになるべくしてなった選手って他にいますか?

 明徳義塾(高知)とはよく練習試合をしていて、終わった後は一緒にバーベキューをするんですね。なぜか室内練習場で、ものすごい煙の中、みんな涙を流しながら肉を食べるんですけど(笑)、そこで石橋(良太/現楽天)さんとお話する機会があって。当時から投げても打っても明らかにレベルが違っていたんですが、食事は何をどれくらい食べたらいいかとか、睡眠時間はどのくらい取ればいいかとか、すごく考えられていた。出されたものをひたすら食べ続けていた僕とはまるで違って、プロになるために高校時代から課題を持ち続けているような人でしたね。

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──済美の中ですごいなって思う選手はいましたか?

 済美の場合は下から叩き上げていくというか、ぶっちぎりのスターはいなくて、みんな3年間で同じくらい伸びていく感じでしたね。だから僕らの代も、1番から9番までホームランが打てるようになったんですけど、ただ甲子園とかプロを目指すのであれば、やっぱりもっと考えながらやる必要があったのかなとは思います。

 関東遠征で対戦した千葉の専大松戸には上沢(直之・現日本ハム)選手がいたんですが、試合は僕らが勝っていたし、あの投手が将来プロに行くなんて全然思ってなかったんです。でも当時から、自分の骨格を考えて、筋肉を付けすぎないようなトレーニングをしたり、いろいろと試行錯誤をしながら野球に取り組んでいたという話を後で聞いて、納得しましたね。

 済美で言うと、13年のセンバツで準優勝した時のエース・安樂(智大・現楽天)投手も、入学当初はベンチプレスが40キロが上がるか上がらないかくらいの筋力だったらしいんですけど、自分の判断で意図的に筋肉を付けすぎないようにしていたそうです。それで高校時代から140キロ台前半のボールをで投げていましたからね。やはり考える力のある子がプロに行くんだなって思います。

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──まずは、三三七拍子に疑問を持つかどうか?

 そこが1つのラインでしょうね(笑)。

──今は部活の指導も、世間から厳しい目で見られるようになりましたしね。

 ただ、プロに行った人たちを見ても、土台にいかつい練習量はあったんだろうなとは感じます。当時、よく練習試合をしに来てくれた浦和学院(埼玉)の選手と、どっちが練習きついか自慢をしてたんですけど、お互いに慰め合うくらいしんどい練習をしてて(笑)。プロになれるのは本当に一握り。それからこぼれるような子たちでも、埼玉で優勝できるくらいのレベルに仕上げるには、やっぱり練習量が大事なんですね。

 根性論に落ち着いちゃうのは好きじゃないんですが、僕らは冬場に、2キロぐらいある鉄の細い棒で、小さなゴルフボールを1万球打つ練習をしたことがあって。途中で握力もなくなるから、テーピングでぐるぐる巻きにしてとにかく振るんです。それが終わってバットを持つと、プラスチックバットみたいに軽く感じる。だからちょっとくらい差し込まれても振り抜けるようになるんです。
 
 夏は夏で、グラウンドコートを2枚重ね着して、風のない雨天練習場でシャトルランをしたり、トラックのタイヤを2、3個引いてノックを受けたり。1週間毎日トリプルヘッダーをやったこともありましたね。ピッチャー陣なんて“中2試合”ですから、もうボロボロですよ(笑)。

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──それは凄まじいですね。

 でも、そんな積み重ねが、プレーの細かな所作に出たりするんですね。ひたすらそういう練習をやってきたので、試合になると「9イニングだけでいいの?」、「こんなに軽いバットでいいの?」って気持ちになるんです。だから夏の大会は、負荷がないボーナスタイムみたいでした(笑)。

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著者プロフィール

吉田治良

1967年、京都府生まれ。法政大学を卒業後、ファッション誌の編集者を経て、『サッカーダイジェスト』編集部へ。その後、94年創刊の『ワールドサッカーダイジェスト』の立ち上げメンバーとなり、2000年から約10年にわたって同誌の編集長を務める。『サッカーダイジェスト』、NBA専門誌『ダンクシュート』の編集長などを歴任し、17年に独立。現在はサッカーを中心にスポーツライター/編集者として活動中だ。

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