なぜ多くの日本人選手が活躍できるのか? フランクフルトとの蜜月…3つの理由
アイントラハトで活躍する長谷部誠(右)と鎌田大地 【Getty Images】
ドイツ国内では5番目の規模に過ぎない『フランクフルト・アム・マイン』という都市に本拠を置くこのクラブに、なぜ多くの日本人選手が名を連ね、確固たる実績を築き上げてきたのか。アイントラハトのクラブ経営状況、ブンデスリーガにおける立場、そして、フランクフルトという街の特徴や風土に至るまで、現地ドイツ人記者が多岐にわたるファクターを通して、このクラブと日本人選手たちとの良好な関係性の秘密を紐解(ひもと)く。
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道を切り拓いたのは日本代表FW
高原直泰がアイントラハトにもたらした歓喜は、今でも地元サポーターの心に残っている 【Getty Images】
日本の全国地域サッカーチャンピオンズリーグが舞台とはいえ、高原が得点すること自体は特別なことでない。それが普通ではないのは、高原がもう41歳、言ってみればサッカーシューズを履くメトシェラ(旧約聖書の登場人物。長命な者のたとえ)であることだ。かつて、アイントラハト・フランクフルトでプレーしたこのセンターFWがいまだに現役でプレーしていることに驚く。今の彼はチームで背番号10を着けつつ、4年前に自ら創立してクラブ代表も務める沖縄SVでJリーグ昇格を目指しているという。
高原はプロの舞台で常に得点してきた。アイントラハト在籍1年目のアレマニア・アーヘン戦で彼がハットトリックを決めて3-2の勝利を収めた際には、アイントラハトのサポーターたちがただちに“高原ソング”を作った。それは2006年のことで、このシーズンが高原にとってブンデスリーガ最高の年だった。リーグ戦30試合で11得点、カップ戦のDFBポカールで4試合4得点。そしてUEFAカップ(現ヨーロッパリーグ=EL)では5試合で2得点をマークした。
だから、高原がすぐにアイントラハト・サポーターたちのお気に入りになったのも当然だった。彼が難解なドイツ語に苦労しながらも頑張ってしゃべろうとする様子も、さらに好印象を与えた。名門ハンブルガーSVに在籍していたときにはドイツの地元大衆紙に“スシボンバー”と名付けられ、公式戦112試合で15得点を記録した。ハンブルクでの晩年は不名誉にも“チャンスキラー”(好機を逃す者の意)などと揶揄(やゆ)されたが、アイントラハトでは常に彼の得点を頼みにできたし、ファン・サポーターたちからも愛され、祝福された。結局、彼は08年の年明けに日本へ帰ったが、このクラブや街での居心地は良かっただろう。
フランクフルトという街は、日本人選手たちにとって良いアドレスなのだと思う。なぜならば、この街のクラブには過去15年に5人の日本人選手が在籍し、その全員がうまく立ち回っているからだ。
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