レスリング金メダル候補・文田健一郎 涙を流しながら東京五輪出場を決意した日
リオ五輪出場を逃し、街中で泣いた日
文田健一郎は、東京五輪のレスリンググレコローマンスタイル60キロ級で金メダル有力候補との呼び声が高い 【写真:MIKI SANO】
いつもなら、重要な大会に負けると、試合直後に感情的になるのに、このときだけは違った。
「敗戦後は悔しかったけど、割と冷静でした。でも、後から徐々に悔しさが込み上げてきたというか……」
この全日本選手権は、リオデジャネイロ五輪出場の切符をかけた国内最後の大会だった。ここで優勝できなければ、事実上、五輪への夢が断たれる。しかし、文田は準決勝にすら駒を進めることができなかった。
「五輪に初めて関われる立場で負けた。あぁ、五輪がダメだったんだと思ったら、急に涙が出てきたんです。そのとき、これだけ泣くほど悔しいのか、と自覚した感じでした。自分はやっぱりリオ五輪を目指していたんだなぁって」
雑踏の中で文田はただ、ただ泣いた。それは自然と込み上げてきた涙だった。
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「簡単には勝たせてもらえないだろうなと、思っていましたよね。申し訳ないけど、私はまだ早いな、勝てないだろうなとどこかで思っていた。もちろん息子には勝ってほしかったですけど、どこかでそう思っていたんです」
無理はない。当時大学2年生だった文田は、戦う舞台が高校から全日本に変わり、なかなか思うような結果を出せずに苦戦していた。しかし、敏郎さんは文田の試合後の涙を伝え聞き、自責の念にかられたという。
「あぁ、泣くほどの思いで息子は、リオに行こうと頑張っていたんだと思うと、親として恥ずかしかったですね。信じていなかったという。まだ早いだろうなとは思っていたけど、親としては、息子を信じてあげることはできたなと」
ただ、その父の悔恨を打ち消すかのように、文田は当時をこう振り返る。
「口では……五輪に出るのは目標って言っていましたけど、今考えると、意識的にはまだまだ甘かったです。自分でも信じていなかったと思います。出られたらいいな、くらいの気持ちだったのかもしれません。冷静に考えて、出られないだろうな、っていうのは自分の中で思っていたと思います」
2015年12月23日、文田は五輪に対する思いを、自分の涙で自覚した。そして父はその涙を知り、誰よりも息子を信じると強く心に決めた。それは親子が見る景色が重なり、共に東京五輪に向けての一歩を踏み出した日だった。
レスリングを強要しなかった父に発したひと言
2019年の世界選手権で優勝して東京五輪出場を決めた文田健一郎は、父親の指導の下、レスリングをはじめた 【写真:MIKI SANO】
文田の母校でもある山梨県立韮崎工業高校のレスリング部監督を務める父・敏郎さんは、文田が子どものころから、土日になると子守がてらに道場へと連れ行っては遊ばせていたという。
そこでブリッジをさせたり、転がったりのマット運動はやらせていたが、決してレスリングをやるように勧めたことはなかったという。しかし、やはり親子である。内心では、息子がレスリングに興味を持ってくれるのをずっと待っていたそうだ。
「レスリングをやらせたい気持ちはもちろんありました。でもなかなか同じ歳くらいでレスリングをするような子が周りにいなかったので、チャンスがなかった。私も高校生の練習を見なければならなかったですし、本人も、横で練習しているお兄ちゃんたちの姿を見て、大変そうだなって顔をしていましたしね(笑)」
最初の転機は、文田が小学4年生のときだった。レスリングの練習場所を求めて1つ年上の女の子が道場に現れた。文田は父に頼まれ、土日だけその女の子の練習相手をするようになった。これがきっかけになったらと、敏郎さんは密かに思っていたという。
しかし文田の気持ちはなかなか揺れなかった。
「そのころは、競技への魅力は感じていなかったですね。そのときも自分は嫌だったけど、やれっていうから、何も考えずやるって感じでした。どちらかというと、レスリング自体がマイナースポーツで、周りにやっている人もいなかったので、僕としては中学校に入るまではあんまり……。できれば周りにレスリングをやっていることをそんなに知られなくていいかなという気持ちのほうが大きかったです」
しかし、そんな文田が、小学6年生の終わりに、突然こんな言葉を口にした。
「お父さん、中学生になったら試合に出るわ」
敏郎さんは耳を疑った。
「『おぉ!』と思って。内心はうれしくてね(笑)。もう息子は残念ながらレスリングはやらないだろうなと思っていましたから」
文田の心に火をつけたのは、父親に連れられて行った中学生の全国大会だった。貸切の大きな体育館に何面も敷かれているマットと、そこに全国から選手が集まって試合をしている光景に、圧倒されたという。それは憧れになり、「自分もここに出てみたい」と思ったのだ。