絶対女王の影で――知られざる親子の物語 皆川博恵はレスリングと生きる
浜口京子の影に隠れて…30歳にして世界大会で初のメダル獲得
レスリングのマットで戦うときの激しい形相とは異なり、普段の皆川博恵は温厚 【佐野美樹】
吉田沙保里、伊調馨、浜口京子。スポーツに詳しくなくとも、彼女たちの名前ならば聞いたことがあるだろう。おそらくほとんどの人が何の競技の選手か、答えられるのではないだろうか。マイナースポーツである『女子レスリング』の知名度を、ここまで知らしめることができたのは、彼女たちの圧倒的な強さと、長きにわたる活躍によるものと言っていい。
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欧米人に比べて身体的にも骨格的にも劣るアジア人にとって、なおさら重量級ではその差が如実に表われる。男女問わず、世界の舞台ではなかなか勝ち目がなく、結果を出すのは難しい。そんな中、日本人でありながら重量級で世界の強豪と互角に戦い、世界チャンピオンに輝いたことのある選手がいた。それが浜口京子だった。国内では追随を許さない浜口の圧倒的な強さに、皆川はずっと苦杯をなめさせられてきた。立ちはだかる大きな壁をあと一歩のところで超えられず、世界大会の舞台に立つことができずにいた。
そんな皆川が、ようやく世界選手権のメダルを手にすることができたのは、30歳を迎えた昨年、2017年のことだ。
「ずっと世界選手権だけメダルが取れなかった。だから試合が終わった瞬間、今までの道のりを思い出して、一気に込み上げてきちゃいました」
30歳と言えば、多くのアスリートが限界を感じてくる年齢でもある。女性アスリートにとっては、なおさら「30」という数字は分岐点でもある。そんな節目に皆川は頭角を現した。
だが、その過程を振り返れば、一度は引退を決意した時期もあった。いわゆる「遅咲き」のストーリーはどうのようにして紡がれてきたのか。そのルーツを探るため、皆川が世界選手権で2度目の銅メダルに輝いた翌日、新幹線に乗って彼女の両親が住む宮城県へと向かった。
レスリングは身近な存在、一時はそこから逃げようとしたことも
皆川(左)は物心つく前からマットに立っていた。右は兄の鈴木崇之さん、全日本チャンピオンにも輝いた実力者だ 【写真提供:皆川博恵】
うれしそうに父・鈴木秀知さんは切り出した。
自身もレスリングの選手だったという秀知さんは、日本体育大学を経て、体育教員として京都府にある宇治高校(現・立命館宇治高校)に赴任した。
「学生たちにレスリングを指導したい」
そう思っていたが、当時の京都府の高校には、どこもレスリング部がなかった。だから、まずは赴任先の宇治高校でレスリング部を立ち上げようと動いた。
まさにゼロからのスタートだった。秀知さんは、部員を集めるところから始めると、「手っ取り早く、選手を強くしたかったから」と、自宅に部員たちを下宿させた。その熱意に学校側もほだされ、ようやく4年後にレスリングマットを購入してもらえたそうだ。さらに秀知さんは、レスリングを普及させるため、そのころから幼い子どもたちへの指導も始める。そんな熱い志で作り上げたレスリング道場に、生まれたばかりの我が子を連れていった、若かりし秀知さんの姿が目に浮かぶ。
「女の子だし、楽しくやってくれれば、それで良かったんです」と、秀知さんは遠慮がちに話す。当時はまだ女性がレスリングをすること自体が珍しかったため、無理にやらせたわけではなかった。だから、娘である博恵には、決して厳しいことも言わなければ、練習を強要したこともなかったという。
しかし物心がつく前からマットに立っていた皆川は、父親の指導のもと、4歳上の兄とともにメキメキと力をつけていった。
「小さいころから体が大きかったし、体重も重かったから、試合に出たらメダルがもらえるみたいな感じでした」
皆川本人は幼少期をそう振り返る。他にも習い事はしていたが、いつでも一番になれて、そのたびにメダルがもらえるレスリングは、やっぱり楽しかったという。
「だから(レスリングを)やめたいって思ったことはなかったですね。あと、それが普通だと思っていたところもあります」
生まれたときから自宅には、父が監督をするレスリング部の高校生たちが一緒に住んでいた。練習に行けば、その学生たちが汗を流していて、父が指導していた。彼女の周りには常にレスリングが身近にあり、生活の一部でもあったのだ。
しかし、そこはやはり女の子。思春期を迎えると、皆川はそうした環境が少し嫌になり、中学校では陸上部に入部する。それは皆川なりの、ちょっとした反抗だったりもしたのだ。
「でも、どれだけ頑張っても、陸上では市内で何位とかのレベルにしかなれなくて。一方で並行して続けていたレスリングでは全国大会で優勝していたから……。やめられなかったですよね」
置かれた環境に抵抗しようとは試みたが、すでに表彰台に上がる喜びを身体が覚えていた。その喜びこそが、レスリングを続けさせた一番の原動力になっていたのだ。