レスリング金メダル候補・文田健一郎 涙を流しながら東京五輪出場を決意した日
父親の背中を追うようにグレコローマンに
父・敏郎さんは、文田が中学生のとき、韮崎工業高校のレスリング場で、二人きりの練習を行った日々が最高の時間だったと話す 【写真:MIKI SANO】
いざ、初戦を迎えると、「なんとも無茶苦茶な試合だった」(敏郎さん)が、粘り強く戦い、最終的に文田は勝利する。勝ったのは1回戦の一度だけだったが、敏郎さんは我を忘れるほど喜んだという。
「まだ38キロ級っていう小さい階級だったんですけど、もう、強烈に私にはうれしすぎて。いつも練習では、女の子にやられている姿しか見ていなかったので、その1回だけですけど、私にとってはとにかくうれしかったですね」
文田もまた、初めての試合での勝利に大きく心を動かされていた。
「憧れていた大きな体育館で、マットが何面もあって……そこで勝ち名乗りをあげられたっていうのが、すごく自分の中で特別なことに感じたんです。1勝だけでしたけど、そこから、試合に勝ちたいという思いが強くなりました」
試合に勝つことの喜びに魅了された文田は真剣にレスリングに取り組んでいく。
男子のレスリングには上半身のみの攻防が許される「グレコローマンスタイル」と、全身で攻防できる「フリースタイル」の2種類がある。日本では、高校に入るまでは基本的にはフリースタイルだけで競技が行われている。
中学に入ってから本格的にレスリングを始めた文田にとって、幼い頃からレスリングをしている全国の対戦相手には、基本的な技では敵わず、出遅れた感があった。そこで、グレコローマン出身の敏郎さんは、技がない文田にグレコローマンの技を教えた。
「小学生はグレコを知らないから、当然グレコの技も知らないなとひらめいて、それなら勝てるかもしれないと。『ガブリ返し』といって、相手の頭に覆いかぶさり後方に投げる技を、フリースタイルにアレンジして教えたんです」
他にも、試合に勝つことだけを追求し、正攻法だけではなく、実践的な技術を重点的に叩き込んでいった。ただ、その練習量は、今振り返っても相当だったと文田は苦笑いを浮かべる。
「毎日、中学校が終わると、歩いて高校まで行って、高校の先輩方と夜遅くまで練習をして。今、考えてもすごい長い時間やっていましたね。土日は朝から父とマンツーマンでひたすら練習でしたから。戻りたくないなって思うくらいです(笑)」
本人も疑いなく自負する圧倒的な練習量は、ものすごいスピードで、文田を成長させていった。初めての試合での勝利に喜んでから1年後、中学2年で出場した全中選手権で、文田はいきなり決勝まで駆け上がる。全国2位になると、中学3年生のときにはついに全国の頂点に立った。
全国を獲った文田に、もう迷いはなかった。父の指導する高校に行き、レスリングを続けると決めた。
「レスリングといったら、父のもとでやるものだと思っていましたし、それが一番伸びると思っていましたから」
敏郎さんもまた、思いは同じだった。
「私の教えたスタイルなので、最後まで私の教えるスタイルで」
中学2年生からグレコローマンの練習にも取り組んでいた文田は、その面白さを知り、高校ではフリースタイルではなく、グレコローマンを選択すると決めていた。
ここから父と息子、監督と選手としての本格的な二人三脚、グレコローマンへの挑戦が始まった。そして文田は、自分の目標と、父の夢を叶えるべく、東京五輪の出場資格を勝ち獲るのである。
(企画構成:SCエディトリアル)
※リンク先は外部サイトの場合があります
文田健一郎(ふみた・けんいちろう)
【写真:MIKI SANO】