連載:「パ・リーグ優勢の時代」はなぜ来た?

両リーグHR王が感じてきたセ・パの差 埋めるため、あえて説くのは「根性論」

小西亮
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中日の看板打者・山崎武司がパ・リーグに籍を移したのは2003年。セ・リーグの野球に慣れ親しんだ山崎は、パ・リーグの野球をどう感じたのだろうか? 【写真は共同】

 プロ野球史上3人しかいない両リーグ本塁打王を獲得した大打者は、セ・パの違いを打席で感じてきた。中日や東北楽天などで活躍した山崎武司にとって、パ・リーグは「速球」、セ・リーグは「変化球」のイメージが強い。楽天在籍時に始まったセ球団との交流戦は「楽だった」と振り返る。評論家の立場としてプロ野球界を見渡すいま、その差は確かに埋まっているとも感じている。では、セ・リーグに足りないものは何か――。「DH制」の是非にも触れながら、希代のアーチストが令和の時代に強調したのは意外にも「精神論」だった。

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実力差を生んだ「スーパーエース」の存在

パ・リーグで当時のスーパーエースたちとの対戦を繰り広げた山崎。野村克也監督との出会いもあり、打撃技術とパワーはさらに向上した 【写真は共同】

――セ・パ交流戦が始まった2005年は、楽天移籍1年目でした。パ・リーグの球団に身を置く中で、セ・リーグに比べて力が優っているというのは感じていましたか?

 交流戦が始まってからの数年、2000年代後半までくらいは、正直言ってタレントが違ったよね。パ・リーグの各球団には大体、エースじゃなくて「スーパーエース」という圧倒的な存在がいたからね。ソフトバンクには杉内(俊哉)や斉藤和巳がいて、西武は松坂大輔だったり、涌井(秀章)だったり。楽天にもマー君(田中将大)や岩隈(久志)がいて、オリックスには金子千尋(現在の登録名は金子弌大)、日本ハムもダルビッシュ(有)が出てきてという具合にね。セ・リーグに比べると、レベルが違ったと思う。ここが決定的な違いだったかな。ドラフトでも、ちょうど次から次にいいピッチャーがパ・リーグに入っていたという差でもあるのかな。

――もちろんセ・リーグにも素晴らしい投手はいましたが、確かにパ・リーグ各球団エース級の顔ぶれは豪華でした。

 しかも、今と違って前は交流戦の日程も少し緩かったでしょ(※07〜14年は各球団計24試合を5週間にわたって実施したため、概ね2勤1休の日程だった)。だから、普通のリーグ戦のときみたいに、表ローテの次のカードは裏ローテみたいなことがない。どのカードもエースをぶつけられた。そうなると、なかなかセ・リーグのバッターたちも攻略するのは難しかったと思うよ。

――パ・リーグの打者たちは、そんな超一線級の投手たちとペナントレースを戦っていたわけですね。必然的に打者のレベルも上がっていくということでしょうか?

 それは一理あるね。強い球を投げられて、しっかり振らないと飛ばない。緩いスイングなんてしていたら通用しないし、振り負けちゃう。いいピッチャーと戦っているから、バッターも成長していくよね。

東京ドームなら60本塁打をマークしていた?

中日時代は「変化球を見極めて打つ」ことへの意識が強かったという 【写真は共同】

――ご自身は中日で16年間過ごした後、パ・リーグで9年間プレーされました。リーグが変わって、打席での違いは感じましたか?

 やっぱり、パ・リーグはストレートが断然速かったね。球の力がすごいから、交流戦でもセ・リーグのバッターは力負けしちゃう。だから、打席での意識も変わったな。とにかく、真っすぐに振り負けないことだけを考えて打席に入っていたね。セ・リーグのときは、いかに変化球をうまく見ながら打つかっていう意識だったから。要は、真っすぐを打つか、変化球を打つかの違い。でも、変化球は絶対的に真っすぐよりも遅いわけだから。楽天にいたころは、交流戦が楽だと思っていたかな。「セ・リーグとの試合で白星を稼がないといけない」とみんな思っていたはず。ただ、これはセ・リーグのピッチャーがダメじゃなくて、野球の質の問題だと思う。やっぱりセ・リーグは変化球という意識はあったから。

――セ・パの実力差の議論になると、必ずと言っていいほど話題に上がるのが「DH制」。巨人の原辰徳監督がセ・リーグへの導入に触れて話題にもなりましたが?
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