連載:イチロー取材記 駆け抜けた19年

屈辱から始まったイチローのメジャー人生 実力で変えた米国の価値観

丹羽政善

連載:第4回

メジャー移籍当初は、屈辱的なこともたびたびあったというイチロー。実力を示すことで、今ではシアトル、そして米国で尊敬される選手となった 【Getty Images】

 3月28日(現地時間、日本時間29日)午前――イチローが引退してからちょうど1週間後、マリナーズは米国での開幕戦を数時間後に迎えようとしていた。

 11時30分にクラブハウスが開く。かつてイチローのロッカーは入って正面にあり、そこには無造作にダンボールが積まれていたが、その場所でイチローがグローブを手入れしている姿、床に寝転がってストレッチをしている姿が、オーバーラップした。

※リンク先は外部サイトの場合があります

ケン・グリフィーJr.との不思議な縁

 ふと、こんなシーンが蘇る。2009年のある日曜日の朝のこと。

 入り口付近にいると、ケン・グリフィーJr.がニヤニヤしながら近づいてきた。何かいたずらを仕掛けるときの顔である。

「ちょっと、見てろよ」

 そのときイチローはロッカーの椅子に座り、ヘッドホンをしていた。だからこそ気配に気づかなかったのだろうが、後ろからそっと近づいたグリフィーが、後ろから両脇をくすぐった。

「グフォ$*%$#@」

 奇襲されたイチローは声にならない声を上げながら、身体をよじった。再びニヤニヤしながら戻ってきたグリフィーはしてやったりの表情を浮かべている。イチローは後日、「だいたい、やることは決まってます。想像はつきますけどね」と苦笑。イジられるのは一度や二度ではなかったが、むしろ、そんな瞬間を楽しんでいるようだった。

「僕にそんなことするのは、あの人しかいないでしょうね。他の人間がやったら、ちょっと問題になりますから(笑)」

 さて、少し振り返るだけで、かくも2人はさまざまな形で交差したが、3月21日、イチローが8回裏に交代を告げられて戻ってきたとき、最後にハグをしたのがグリフィーというのも何かの縁か。そして、あの試合後も――。

メジャー1年目に聞かれた屈辱的な質問

 長いイチロー取材の始まりは、2001年2月までさかのぼる。

 イチローは、キャンプイン前からアリゾナ州ピオリアにあるマリナーズのキャンプ施設で自主トレを始めていた。

 キャンプが始まらないとメディアは施設内に入れない。イチローがどんな練習をしているかも分からず、練習が終わる頃を見計らって、選手駐車場の外で待つ。帰り際、そこで車を止めたイチローが、その日、どんなことをしたかを説明する。そうしてメジャー19年の幕が開いた。

 その1年目のキャンプ。イチローはこんなことを覚えていた。

「2001年のキャンプなんかは(シアトルのファンに)『日本に帰れ』って、しょっちゅう言われましたよ」

 引退会見で明かしたエピソードだが、イチローのキャリアをたどると、しばしば屈辱の歴史に触れることになる。オープン戦が始まると、こんなこともあったそう。

 2010年9月23日、トロントで10年連続200安打を達成した日に思うところを聞かれると、「ひとつ言えるのは……」と切り出し、一息にまくしたてた。

「マイク・ハンプトン(当時ロッキーズ)というピッチャーがいましたけど、あのピッチャーと対戦したときに、割と早い段階だったと思いますが、『彼からヒットを打てると思いますか?』という質問が飛んできたんですよね。まあ、あの質問は一生忘れないです。最初は侮辱から始まりましたから。かなり侮辱されましたからね、スプリングトレーニングでは」

 メジャーではそれなりに知られた好投手でもあったが、屈辱的な質問だった。振り返る言葉は怒気さえ含んでいた。それが10年でどう変わったか。

「今日、10年200本(安打)を続けて、ヒットが出ないと『何で出ないんですか?』という質問に変わったわけですよね。そういう状況を作れたことはすごく良かった」

 こんな経験もしている。

「親戚のおばちゃんに、『こんな世界では絶対お前は無理だ』って言われて、最初ね。そのことはちょっと思い出しますね。従兄弟の結婚式で会ったんだけど。確率の問題を言ってましたね。やっていける人は少ないって話ですけど」

 懐かしむかのように明かしたのは2011年のキャンプ初日のこと。言われたのは、本人の記憶によるとドラフト前日のことだそうだが、メジャーどころか、これからプロで、というときに否定された。

 さらには、「小学生の頃、毎日野球を練習していると、近所の人から『あいつ、プロ野球選手にでもなるつもりか?』って、いつも笑われていた」という。「悔しい思いをした」と振り返ったが、日米通算ながらピート・ローズのメジャー通算安打記録(4256安打)を更新した2016年6月15日、誇らしげに言った。

「僕は子供の頃から人に笑われてきたことを、常に達成してきている自負がある」

 屈辱と正面から向き合い、それを覆そうとする原動力は陰でイチローを支えた。

1/3ページ

著者プロフィール

1967年、愛知県生まれ。立教大学経済学部卒業。出版社に勤務の後、95年秋に渡米。インディアナ州立大学スポーツマネージメント学部卒業。シアトルに居を構え、MLB、NBAなど現地のスポーツを精力的に取材し、コラムや記事の配信を行う。3月24日、日本経済新聞出版社より、「イチロー・フィールド」(野球を超えた人生哲学)を上梓する。

新着記事

編集部ピックアップ

コラムランキング

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着公式情報

公式情報一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント