屈辱から始まったイチローのメジャー人生 実力で変えた米国の価値観
熱狂したシアトルファン
イチローの米国人気はオールスター投票に代表されるように、社会現象となり、多くのファンに受け入れられるようになった 【Getty Images】
2001年4月2日、開幕戦。同点の8回裏無死一塁、一塁側へ転がした犠牲バントが内野安打になった。打球を処理した投手がイチローのスピードに焦り、一塁へ悪送球したのだ。それが勝ち越しにつながり、ファンは目の当たりにしたその足の速さに狂喜した。
開幕4戦目にはテキサスで勝ち越し2ランを含む6打数4安打を記録。開幕8戦目には、オークランドで伝説のレーザービーム。4月16日、遠征から戻ったときにはすでに3.5ゲーム差をつけてマリナーズは首位に立っており、翌17日の試合でイチローが4月2度目の1試合4安打を放つと、このときにはもうイチローに対する懸念が完全に払拭され、“イチロー・マニア”という言葉が、新聞の紙面に踊るようになった。
5月に入ると、地元紙『シアトル・タイムズ』の1面に、こんな見出しの記事が載っている。
“Seattle's TV-watching baseball fans are itchy for Ichiro”(2001/5/18)
(シアトルの野球ファンは、イチローのことが見たくてたまらない)
“Itchy”とは、「〇〇したくてたまらない」といったような意味で、“Ichiro”にかけたものだが、どんな記事かと言えば、テレビ視聴率が記録的な数字を叩き出している、という内容だった。
それによると、地元局『FOX SPORTS NORTHWEST』で放送された4月のマリナーズ戦全17試合の平均視聴率は13.6ポイント(前年4月は9.2ポイント)。5月は10試合で16.48ポイント。『FOX SPORTS』の系列局では、カージナルス戦の視聴率が6.0ポイント(4月)で2位だったが、マリナーズの試合はその倍以上の視聴率を稼いでいた。
シアトルエリアの場合、1ポイントは1万5000世帯に相当するそうだが、セーフコ・フィールド(現Tモバイル・パーク)にも連日、4万人以上のファンが詰めかけ、イチローに熱狂した。
引退会見でイチローは、「言葉ではなくて、行動で示したときの敬意の示し方っていうのは、迫力あるなっていう印象ですよね」とシアトルのファンについて振り返り、「だから、なかなか入れてもらえないんですけど、入れてもらった後、認めてもらった後は、すごく近くなるという印象。ガッチリ、こう関係ができ上がる。シアトルのファンとはそれができたような……。それは僕の勝手な印象ですけど」と続けた。イチローは、5月にもう、絆を感じていたのではないか。
米国で社会現象に
イチローに投じられた3,373,035票は、両リーグ通じてトップ。日本の票のおかげだという声もあったが、日本票は682,815票。米国内だけで2,690,220票を集めており、実はそれだけでも両リーグ最多だった。あの年で引退が決まっていたカル・リプケンJr.(オリオールズ)、ナ・リーグの最多得票を獲得したバリー・ボンズ(ジャイアンツ)も、遠く及ばなかった。
オールスターゲーム当日の試合前だったか。両リーグで最多得票を獲得したイチローとボンズに記念のトロフィーが贈呈され、感想を求められたイチローは、「アメージング!」と叫んだが、セレモニーの進行役を務めていた元マリナーズのハワード・レイノルズが、「あなたそのものがアメージングだ」とボソッと漏らした。
実のところ、その一言は前半の活躍を象徴した。
さて、そういう流れの中で迎えた「イチローボブルヘッドデー」によって、あの年のイチロー人気が、社会現象として認知されるに至った。
2001年7月28日のデーゲームで、先着2万人のファンにイチローのボブルヘッド人形が配られたが、それをめぐってなんと前日の夜から並ぶファンまで現れたのである。
前日、取材をして帰ろうとすると、駐車場脇の広場に長い列ができていた。話を聞くと、「帰ろうと思ったら、列ができていたから、そのまま並んだ」という人がほとんどで、その様子が23時からのローカルニュースで紹介されると、さらに多くの人が駆けつけ、列が伸びていった。
途中、ピザの配達を頼む人もいて、ちょっとしたお祭り騒ぎになったが、7月のシアトルにしては珍しく冷たい雨が降る中、多くの人がそこで夜を明かした。
早朝、横入りをした、しないでトラブルとなり、マリナーズは開門を1時間以上も繰り上げた。その頃には球場の周りをぐるりとファンが取り囲み、もう最後尾が見えなくなっていた。後にも先にも、マリナーズのホームゲームで徹夜組が出たのは、あの試合だけである。