連載:イチロー取材記 駆け抜けた19年

イチロー引退へ、長い長い一日の始まり 「3.21」ドキュメント

丹羽政善

連載:第2回

イチローの引退会見は深夜にまで及び、長い一日となった 【Getty Images】

 3月21日午前、マリナーズのジョン・スタントン会長は東京からニューヨークにいるロブ・マンフレッドMLBコミッショナーに電話をかけた。

「イチローが引退するかもしれない」

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コミッショナーが望んだ最後の花道

 長い、長い一日の始まりだった。

「コミッショナーは、我々が彼にふさわしい花道を用意することを望んでいたんだ」とスタントン会長。

「イチローが引退する場合、彼は声明を発表する予定になっていた」
 
 実際は“かもしれない”ではなく、確実に知っていたはず。なにしろ、そこへ至るシナリオを描いたのは会長自身なのだから。

 ゴールデンウイークにNHK-BS「ワースポ×MLB」で、 「イチロー引退の舞台裏」が10夜連続で放送された。今回、その取材を手伝う機会に恵まれたが、4月半ばにインタビューに応じたスタントン会長は、こう明かした。

「昨年4月の時点で、彼にとっての最善策を考えていると(イチロー本人に)伝えた」

 2018年当時、ベン・ギャメルが故障から復帰し、外野手が5人に。そもそもイチローと契約したのは、ギャメルが右の脇腹を痛め、開幕が絶望となった後のこと。イチローは開幕ロースターにこそ名を連ねたが、出場機会が少なくなっていた。
「(最善策を話したとき)日本で開幕戦を行うことは発表されていなかったけれど、その可能性がある、という話をした」

 すなわち、選手登録を外すが、来年(2019年)3月に東京でプレーするチャンスを与える――。異例ではあったが、イチローも昨年5月3日(現地時間、日本時間4日)にそれを受け入れた際の会見でこう言った。

「これが最後ではない、ということをお伝えする日。それ(東京での開幕戦)があることで明確に、遠いですけど、目標を持っていられるっていうのは大きなことです」

引退のスクープをつかんだ記者は……

 スタントン会長がマンフレッドコミッショナーと電話で話している頃、『シアトル・タイムズ』紙のライアン・ディビッシュ記者は、滞在していた品川のホテルで机に向かっていた。引退発表が試合前になる可能性にも備え、早朝から予定稿の執筆に取り掛かり、仕上げの段階に入っていた。

「(東京遠征後に)40人枠から外れる、ということは聞かされていた。それで引退すると思った」とディビッシュ記者。

 いつなのかは分からない。東京遠征の後、米国で開幕戦が行われるまでに6日間という時間があった。ただその数日前、同紙のカメラマンが第2戦終了後に記者会見が行われることを耳にしていた。

「それで複数の関係者に確認したところ、イチローが(東京で)区切りをつけることを認めた」

 もっともあのとき、ディビッシュ記者はツイッターなどで速報することはなかった。そうしていればそのツイートはまたたく間に拡散し、日米でイチローの引退をスクープした記者として名を知られることになったはずである。

 なぜ、控えたのか?

「イチローの気持ちが変わると思ったから(笑)」

 半分は冗談で、半分は本気だったが、こんな思いがあったという。

「最大の理由は彼への敬意だ。引退発表は彼にとって重大なこと。東京に遠征するまで何も言わなかった。彼なりに、どう幕を引くか描いていたんだと思う」

 それを邪魔したくなかった――。

「そうだ。登録選手の入れ替えやトレード話はツイッターなどで伝えても構わない。避難勧告などにも有効だが、あらゆる速報に適しているわけではない。だから、彼の望む形で発表してほしかった。だから、ツイートしなかった」

 その頃、遠くシアトルでも、イチローの思いを汲んだ人がいた。

 電子版のデスクもディビッシュ記者からの連絡で引退を知っていた。シアトル時間で20日午後8時には予定稿も送られてきた。

 校正をして、午後10時にはネットにアップしようと思えば、できた。またそうすれば、他のメディアに引用され、すさまじいPV(ページビュー)を叩き出したはずである。

 ところが、正しいタイミングをじっと待った。社で夜を明かし、引退発表が日本でも報じられた明け方になって一報を掲載した。

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著者プロフィール

1967年、愛知県生まれ。立教大学経済学部卒業。出版社に勤務の後、95年秋に渡米。インディアナ州立大学スポーツマネージメント学部卒業。シアトルに居を構え、MLB、NBAなど現地のスポーツを精力的に取材し、コラムや記事の配信を行う。3月24日、日本経済新聞出版社より、「イチロー・フィールド」(野球を超えた人生哲学)を上梓する。

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