イチロー引退の日、何が起きていたのか 「3.21」ドキュメント
連載:第3回
声援に応えるイチロー。試合後、東京ドーム場内を一周し、ファンに別れを告げた 【Getty Images】
個人的にはあの日の昼過ぎ、東京ドームに着いてから「試合後に発表があるだろう」という話を耳にした。ただ、感慨に浸る暇などない。それからは、いろんなところに連絡をしたり、書きかけの原稿を直したりと、やることが際限なくあった。
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多くの選手は引退を知らずに試合へ
ただ16時過ぎ、サービス監督が会見を行った後で、マリナーズはチームミーティングを開いた。通常、シリーズ初戦に野手、投手がそれぞれミーティングを行うが、シリーズ2戦目というのは不自然だった。ひょっとしたら、試合前に伝えることもあるのか。
ミーティングが終わってフィールドに出てきた、ある信用のできる選手に確認したものの、「そういう話ではなかった」という返事。その後、ジェリー・ディポトGM(ゼネラルマネジャー)をベンチ裏で捕まえたが、のらりくらり。「イチローをどうするかは正しいときに発表する。今夜は素晴らしい夜になるだろう」。
これが当連載第1回で紹介したエピソードにつながる。
18時35分、試合開始。
あのとき、多くのチームメートもはっきりとは分からないまま、試合が始まった。そもそもイチロー本人が、それを悟られないように振る舞ったのは間違いない。昨季は5月2日(現地時間、日本時間3日)の試合が最後になったが、あのときもイチローは言っている。
イチローと対戦した最後の投手、その心境
イチローと最後に対戦した投手、アスレチックスのトリビノ。「光栄だった」と振り返る 【Getty Images】
21時26分。8回2死二塁でイチローが4度目の打席に。あの時点では同点。延長で再び打席が回る可能性もあったが、最後になるのではという緊張感が球場全体を支配し、ゆっくりと打席に向かうイチローにすべての人の視線が注がれていた。
多くのファンが、スマートフォンを掲げながら、悲鳴に近い声を上げる。時代の終わりが、確実に迫っていた。
そんな変化をマウンド上にいたルー・トリビノ(アスレチックス)も感じ取っていた。4月終わり、オークランドを訪れて昨季デビューすると一気に頭角を現したトリビノに、あの最後の打席のことを問うと、「彼にとって最後の打席になるかもしれないと、感覚的に悟った」と話し、続けている。
「(延長になれば)また打席が回ってくる可能性もあったけど、交代するかもしれない」
実際にイチローが打席に入り、正対した。
「気にしないようにした」
それでも2度、プレートを外した。意識しないようにというのは無理だった。
「歴史的な瞬間だったから」
実は試合後、友人から、「ストレートを投げて打たせてあげるべきだったんじゃないか」というメールが届いたそうだ。対して、「ひとりの勝負師として、どんな勝負でも自ら負けようとは思わなかった」とトリビノ。正解だった。誰よりもそんなことはイチローが望まない。
一方で、こんな思いも頭をかすめたという。
「もし彼がタイムリーヒットを打っていたら、個人的には残念だけど、球界にとっても彼にとっても最高の物語になっていた」
さまざまな思いが交錯する中で、一塁は際どいタイミングになった。
「彼がスーパーマンだったとしたら、私は悪役。人々の期待に反して、彼を打ち取ってしまった……」
もっとも、そこに立ち会えたこと、当事者として関わりを持てたこと。今は誇りに思う。
「(最後に)彼と対戦できたことは光栄だった」
ため息が拍手に変わる中でイチローは、淡々と三塁側ダグアウトに引き上げた。
このとき、野手がなかなか守備につこうとしなかった。そのままイチローに交代が告げられると思ったのだ。しかし、そこで声をかけたのはマニー・アクタベンチコーチではなかったか。
「さあ、守備につけ」