連載:イチロー取材記 駆け抜けた19年

イチロー引退の日、何が起きていたのか 「3.21」ドキュメント

丹羽政善

連載:第3回

声援に応えるイチロー。試合後、東京ドーム場内を一周し、ファンに別れを告げた 【Getty Images】

 迎えた運命の3月21日。ファンもまた覚悟していたのではないか。

 個人的にはあの日の昼過ぎ、東京ドームに着いてから「試合後に発表があるだろう」という話を耳にした。ただ、感慨に浸る暇などない。それからは、いろんなところに連絡をしたり、書きかけの原稿を直したりと、やることが際限なくあった。

※リンク先は外部サイトの場合があります

多くの選手は引退を知らずに試合へ

 その後、何事もないかのように、予定されていたことがほぼ時間通りに過ぎていく。

 ただ16時過ぎ、サービス監督が会見を行った後で、マリナーズはチームミーティングを開いた。通常、シリーズ初戦に野手、投手がそれぞれミーティングを行うが、シリーズ2戦目というのは不自然だった。ひょっとしたら、試合前に伝えることもあるのか。

 ミーティングが終わってフィールドに出てきた、ある信用のできる選手に確認したものの、「そういう話ではなかった」という返事。その後、ジェリー・ディポトGM(ゼネラルマネジャー)をベンチ裏で捕まえたが、のらりくらり。「イチローをどうするかは正しいときに発表する。今夜は素晴らしい夜になるだろう」。

 これが当連載第1回で紹介したエピソードにつながる。
 試合後、イチローが場内一周を始めると、ファンは総立ちでそれを見守った。たまたま隣に居合わせたディポトGMに、「言っただろう? 『素晴らしい夜になる』って」と言われたが、あの一言を引退と結びつけることなどできなかった。

 18時35分、試合開始。

 あのとき、多くのチームメートもはっきりとは分からないまま、試合が始まった。そもそもイチロー本人が、それを悟られないように振る舞ったのは間違いない。昨季は5月2日(現地時間、日本時間3日)の試合が最後になったが、あのときもイチローは言っている。

イチローと対戦した最後の投手、その心境

イチローと最後に対戦した投手、アスレチックスのトリビノ。「光栄だった」と振り返る 【Getty Images】

 19時45分、引退の報が流れてから初めて、イチローがその日2度目の打席に入る。明らかに1打席目とは空気が違った。

 21時26分。8回2死二塁でイチローが4度目の打席に。あの時点では同点。延長で再び打席が回る可能性もあったが、最後になるのではという緊張感が球場全体を支配し、ゆっくりと打席に向かうイチローにすべての人の視線が注がれていた。

 多くのファンが、スマートフォンを掲げながら、悲鳴に近い声を上げる。時代の終わりが、確実に迫っていた。

 そんな変化をマウンド上にいたルー・トリビノ(アスレチックス)も感じ取っていた。4月終わり、オークランドを訪れて昨季デビューすると一気に頭角を現したトリビノに、あの最後の打席のことを問うと、「彼にとって最後の打席になるかもしれないと、感覚的に悟った」と話し、続けている。

「(延長になれば)また打席が回ってくる可能性もあったけど、交代するかもしれない」

 実際にイチローが打席に入り、正対した。

「気にしないようにした」

 それでも2度、プレートを外した。意識しないようにというのは無理だった。

「歴史的な瞬間だったから」
 
 実は試合後、友人から、「ストレートを投げて打たせてあげるべきだったんじゃないか」というメールが届いたそうだ。対して、「ひとりの勝負師として、どんな勝負でも自ら負けようとは思わなかった」とトリビノ。正解だった。誰よりもそんなことはイチローが望まない。

 一方で、こんな思いも頭をかすめたという。

「もし彼がタイムリーヒットを打っていたら、個人的には残念だけど、球界にとっても彼にとっても最高の物語になっていた」

 さまざまな思いが交錯する中で、一塁は際どいタイミングになった。

「彼がスーパーマンだったとしたら、私は悪役。人々の期待に反して、彼を打ち取ってしまった……」

 もっとも、そこに立ち会えたこと、当事者として関わりを持てたこと。今は誇りに思う。

「(最後に)彼と対戦できたことは光栄だった」

 ため息が拍手に変わる中でイチローは、淡々と三塁側ダグアウトに引き上げた。

 このとき、野手がなかなか守備につこうとしなかった。そのままイチローに交代が告げられると思ったのだ。しかし、そこで声をかけたのはマニー・アクタベンチコーチではなかったか。

「さあ、守備につけ」

1/2ページ

著者プロフィール

1967年、愛知県生まれ。立教大学経済学部卒業。出版社に勤務の後、95年秋に渡米。インディアナ州立大学スポーツマネージメント学部卒業。シアトルに居を構え、MLB、NBAなど現地のスポーツを精力的に取材し、コラムや記事の配信を行う。3月24日、日本経済新聞出版社より、「イチロー・フィールド」(野球を超えた人生哲学)を上梓する。

新着記事

編集部ピックアップ

コラムランキング

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着公式情報

公式情報一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント