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佐藤あり紗が選んだ“選手兼広報”の道
「ずっとバレーをやめたかった」
取材当日は、リガーレ仙台の営業・広報活動で、東北新幹線に乗って仙台から東京へ。重たいキャリーケースを引きながら東京・丸の内まで来てくれた
取材当日は、リガーレ仙台の営業・広報活動で、東北新幹線に乗って仙台から東京へ。重たいキャリーケースを引きながら東京・丸の内まで来てくれた【撮影:熊谷仁男】

 週に6日、バレーボール選手として体育館で汗を流す一方、練習以外の時間は選手兼広報としてクラブのPRに励む。今はこんなことをしています、と笑顔で差し出す名刺と、旅行時に使える1回使い切りの小さなサイズのバスクリン。


「スポンサーとして支えていただいているんです。ぜひ、温まってください」


 古川学園高校、東北福祉大から日立リヴァーレに進み、リベロとして2016年にリオデジャネイロ五輪にも出場した佐藤あり紗は、今「世界で一番好きな場所」という地元・仙台でプロ選手として、新たなバレーボール選手としてのキャリアを刻んでいる。

“選手兼広報”として精力的に駆け回る日々

バッグの中には、自分の名刺と“お土産”の入浴剤や仙台の名産品がびっしりと詰まっていた
バッグの中には、自分の名刺と“お土産”の入浴剤や仙台の名産品がびっしりと詰まっていた【撮影:熊谷仁男】

――日立リヴァーレから地元・仙台へ。今、佐藤選手はどのような立場で活動しているのですか?


 国内のバレーボールはトップがV1リーグ、それからV2リーグ、地域リーグとあるのですが、私は今、地域リーグよりも下のカテゴリーに属する「リガーレ仙台」というチームにいます。以前は仙台をホームタウンとして活動していた「仙台ベルフィーユ」というチームがあり、その母体を受け継ぐ形で発足しました。チームを立ち上げた時は3人しかいなかったのですが、それから2回のトライアウトを経て選手も増え、今は週に6回練習しています。


 そうは言っても専用の体育館があるわけではなく、まだまだ小さなクラブです。私自身は選手としてもそうですが、チームの広報として講演会やイベント、バレー教室など、いろいろな活動を通して「リガーレ仙台」というクラブを知っていただきたい。自分の今までの経験も含め、地元の方々から応援したいと思ってもらえるようなクラブ、選手になりたいと思いながら活動しています。


――Vリーグで活躍して、日本代表でも活躍。五輪にも出場しました。「まだまだトップでやれるでしょう」という声もあるなか、今の環境を選んだ理由は?


 半分半分の意見があるんです。「やっぱり仙台でやるんだね」と言う人もいれば、「どうしてやめちゃったの」とも言われる。でも私自身は今の選択が私らしい決断だと思うし、そもそも異常に仙台が好きなので(笑)、どうしても仙台でバレーボールをしたいという思いが強かったんです。だから今は、今までのバレーボール人生で一番楽しいと思っています。

グラチャンで個人賞を獲得したほどの実力を持つ佐藤(右)だが、ずっと「バレーをやめたい」と思っていた
グラチャンで個人賞を獲得したほどの実力を持つ佐藤(右)だが、ずっと「バレーをやめたい」と思っていた【写真:アフロスポーツ】

――企業チームとクラブチームでは活動形態も違いますが、今までと比べてどんな変化がありますか?


 本音を言うと、私、もともとずっと「バレーボールをやめたい」と思い続けていたんです。高校も大学も強豪と呼ばれるチームでプレーさせてもらってきましたが、高校卒業後も大学卒業後もバレーボールをやめて保育士になりたかったんです。それでもバレーボールをトップの世界で続けた1つの理由に、「将来は地元の仙台ベルフィーユに入りたい」という思いがありました。


 でもいろいろなご縁や巡り合わせがあって、大学卒業後はVリーグの日立に入ることになった。仙台でバレーをやりたい、という思いは相変わらず強かったのですが、家族や恩師に相談したら「仙台だけではなく、トップの場所でバレーボールを頑張ることが仙台の人たちにとっても恩返しにつながるのではないか」と言われたので、自分に声をかけてくれる場所があるならそこで頑張ることが仙台への恩返しになるんだ、という考えに変わりました。いつかは仙台に戻りたいという思いがずっとありましたが、そのためにも日立で頑張ろうと思ってVリーグに入りました。


――日立では中心選手として活躍されました。


 日立というとても大きな会社で、恵まれた、守られた環境を与えていただきました。それは本当にありがたいことでしたが、冷静に考えるとバレーボールをするということ以外で、本当にあなたはその会社に入りたかったのか? と言われると難しいですよね。実際に車のことも部品のことも分からない。正直に言うと、バレーボール選手として日立に入ってからも毎年やめよう、やめよう、と思っていたし、仙台に戻りたいと思っていました。


 でも節目、節目で入れ替え戦に勝ったり、チームのキャプテンにしてもらったり、準優勝したり……そこでもいろいろな巡り合わせがあった。大きな流れに任せて、守られた環境にいた、というのが本音かもしれません。

田中夕子

神奈川県生まれ。神奈川新聞運動部でのアルバイトを経て、『月刊トレーニングジャーナル』編集部勤務。2004年にフリーとなり、バレーボール、水泳、フェンシング、レスリングなど五輪競技を取材。共著に『海と、がれきと、ボールと、絆』(講談社)。『SAORI』(日本文化出版)、『夢を泳ぐ』(徳間書店)、『絆があれば何度でもやり直せる』(カンゼン)など、女子アスリートの著書や、前橋育英高校野球部・荒井直樹監督の『当たり前の積み重ねが本物になる』では構成を担当

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