名波が、内田が振り返るアジア制覇の記憶 森保ジャパンは盟主の座を取り戻せるか
優勝したいずれの大会でも、厳しい戦いを強いられた
日本は最多4度のアジアカップ優勝を誇る。森保ジャパンは2大会ぶりの王座奪還に挑む(写真は2011年大会) 【写真:アフロ】
翌年にJリーグの開幕と、米国W杯予選を控えていた1992年、ハンス・オフト監督に率いられた日本代表は、広島で開催されたこの大会でカップを掲げ、アジアの盟主としての道を歩んでいくことになる。
続く1996年UAE(アラブ首長国連邦)大会はベスト8でクウェートに屈したものの、フィリップ・トルシエ監督、ジーコ監督のもとで臨んだ2000年レバノン大会、2004年中国大会で連覇を達成。2007年東南アジア大会は4位に終わったが、アルベルト・ザッケローニ監督に率いられた2011年カタール大会で王者に返り咲く。
2015年オーストラリア大会はベスト8で散ったが、通算4度の優勝は、イラン、サウジアラビアの3度を抑えて歴代最多の数字である。
もっとも、頂点に駆け上がったいずれの大会でも、厳しい戦いを強いられた。
1992年大会を回想するのは、当時キャプテンとしてオフトジャパンをまとめた柱谷哲二である。開催国の重圧からか2試合続けてドローに終わり、引き分けすら許されないイランとの第3戦も、スコアレスのまま終盤へと突入する。
この絶体絶命のピンチを救ったのが、エースの「カズ」こと三浦知良だった。85分に生まれた起死回生の決勝ゴールでイランを下した日本代表は、初優勝に向かって突き進み、柱谷もピッチ上の監督としてチームをけん引していく。
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だが、それでも準決勝では中国にリードを許し、サウジアラビアとの再戦となった決勝ではシュートの雨あられを浴びた……。この2000年大会を振り返るのは、大会MVPに輝いた名波浩。名波自身、セリエAのベネチアで手にした経験を代表チームに還元したい、という強い意欲で臨んだ大会だった。
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2004年は限界を超え、2011年はサブ組が救った
優勝したいずれの大会も苦戦の連続。2004年大会は絶体絶命のピンチを切り抜け、頂点へ駆け上がった 【写真:ロイター/アフロ】
だが、ぎりぎりの戦いに、選手たちの肉体と精神は限界が近づいていた。そんなチームを救ったのが、第3回の語り部である玉田圭司だ。バーレーンとの準決勝で大会初ゴールを含む2ゴールを決めると、決勝でも開催国の中国にダメ押しゴールを決めた。この活躍によってジーコ監督の信頼をつかんだ玉田は2年後、ドイツW杯のメンバーに選出されることになる。
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ノックアウトステージに入っても苦戦が続くチームの救世主となったのは、出場機会に恵まれていない選手たちだった。伊野波雅彦が、細貝萌が、李忠成が大事な場面でゴールをもぎ取り、日本代表はアジアの頂点に駆け上がる。サブ組の活躍を、ザックジャパンの未来を、内田はどう感じていたのか。
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ロシアW杯終了後に発足した森保ジャパンには、長谷部誠や本田、香川真司といった、これまで代表チームの顔だった選手はいない。南野拓実、中島翔哉(※)、堂安律ら2列目の若武者を筆頭に、生まれ変わった日本代表がアジアの戦いに挑む。
初の国際大会を迎え、ここまで親善試合で4勝1分の好成績を残している森保監督の真価も問われることになる。ベスト8で敗れた前回大会の屈辱を晴らし、森保ジャパンは果たしてアジア王者に返り咲けるのか。その可能性を探る。
※負傷により代表チームを離脱
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配信スケジュール(スポーツナビ公式アプリ)
配信中
第2回 若い日本は“頭脳”を必要としていた 名波浩が語るアジア制覇の記憶 2000年
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第3回 あの言葉は今も…人生を変えたゴール 玉田圭司が語るアジア制覇の記憶 2004年
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第4回 優勝を目指す集団に“美談”はいらない 内田篤人が語るアジア制覇の記憶 2011年
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第5回 森保ジャパンよ、苦戦せよ もがき苦しみながら勝ち上がれ
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