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若い日本は“頭脳”を必要としていた
名波浩が語るアジア制覇の記憶 2000年

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アジアカップ参加の裏にあったトルシエとの雪解け

8強止まりだった1996年大会の雪辱を晴らすと同時に、イタリアで身につけたものを代表に還元するという強い意欲があったという
8強止まりだった1996年大会の雪辱を晴らすと同時に、イタリアで身につけたものを代表に還元するという強い意欲があったという【浦正弘】

 十年ひと昔というから、すでにふた昔前のことになる。日本が史上2度目のアジア王者となった2000年秋のアジアカップのことだ。


 開催地は西アジアの小国レバノン。かつて「中東のパリ」とも呼ばれた首都ベイルートには、無数の弾痕でハチの巣になった建物が数多く捨ておかれ、内戦やその後の紛争による爪痕がまだ生々しく残っていた。

 日本を含め、東アジア勢にとっては不利な大会。そう考えられていた時代である。過去に中東開催のアジアカップを制した東アジアの国がひとつもなかったからだ。


 だが歴史は変わる。『白い呪術師』と呼ばれたフランス人のフィリップ・トルシエ監督率いる日本代表は、大いなる自信をもって決戦の地に乗り込んでいた。チームの大黒柱だった名波浩が、当時をこう振り返る。


「最低でも決勝。そこで、勝つか負けるか。そういう大会だと思っていた」


 名波によると、自信の根拠はふたつあった。ひとつはチーム戦術が固まってきたこと。もうひとつは同年夏のシドニー五輪で8強に導いた数人の主力選手たちがチームに合流し、若さや勢いが加わったことにあるという。


 何しろ、チーム最年長は、当時28歳の森島寛晃だった。森島と同学年の名波と海本慶治も27歳の働き盛り。あとは20代前半の選手がひしめく若いチームだったのである。


 国際経験が乏しかったわけではない。若手の多くは各アンダー世代で世界大会に出場してきた逸材ばかりだ。ただし、2年前のフランス・ワールドカップ(W杯)に出場した小野伸二を除くと、フル代表では初の大舞台になる。


 しかも、最高の切り札を欠いていた。

北條聡

週刊サッカーマガジン元編集長。早大卒。J元年の93年に(株)ベースボール・マガジン社に入社。以来、サッカー畑一筋。昨年10月末に退社し、現在はフリーランス。著書に『サカマガイズム』、名波浩氏との共著に『正しいバルサの目指し方』(以上、ベースボール・マガジン社)、二宮寿朗氏との共著に『勝つ準備』(実業之日本社)がある。

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