連載:すべてはアジアカップから始まった…

あの言葉は今も…人生を変えたゴール 玉田圭司が語るアジア制覇の記憶 2004年

西川結城
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初めて臨んだ国際大会で、4試合無得点に終わっていた

玉田圭司にとって2004年アジアカップは初めての国際大会だった。それゆえ「自分のことだけで精いっぱいだった」という 【齊藤友也】

 過去に日本代表はアジアカップで4度のチャンピオンに輝いている。なかでも戦いの過酷さでいえば、この大会が思い出されるのではないだろうか。

 2004年、中国大会。

 日本は決勝まで勝ち進み、8月7日に開催国の中国との熱戦を制し、見事王者となった。

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 大観衆で埋め尽くされた北京工人体育場。日本の1点リードで迎えた試合終了間際、追い上げる中国の加勢ムードを一気に沈めた男が、玉田圭司だった。

 トップ下の中村俊輔から繰り出されたスルーパスに抜け出すと、GKを冷静にかわしてゴールに流し込む。静まり返るスタジアム。敗北を突きつけられた中国。玉田が、日本にアジア王者のタイトルを手繰り寄せた瞬間だった――。

中国の「三大竈(かまど)」のひとつに数えられる酷暑の街、重慶で日本はグループステージを戦った 【写真:ロイター/アフロ】

 さかのぼること3週間前。7月20日に日本の戦いは幕を開けた。グループステージの舞台となったのは重慶だった。中国の内陸地に位置し、夏は高温多湿。あまりに暑いため、中国の「三大竈(かまど)」のひとつに数えられる街である。

 初戦のオマーン戦で玉田は2トップの一角に抜てきされた。相棒は2年前の日韓ワールドカップ(W杯)でエースを担った鈴木隆行。プレースタイルは、剛の鈴木と、柔の玉田。このレフティコンビに、ジーコ監督は日本の前線を託した。

 初戦から日本は苦戦を強いられたが、フィールドプレーヤーでは欧州からただひとり参加した中村が挙げたビューティフルゴールを守り抜く。続くタイ戦は4−1の大勝を飾り、グループステージ最終戦のイラン戦はスコアレスドロー。日本は2勝1分でノックアウトステージ進出を決めたが、この時点でチームの体力はかなり減退傾向にあった。玉田が当時を振り返る。
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著者プロフィール

サッカー専門新聞『EL GOLAZO』を発行する(株)スクワッドの記者兼事業開発部統括マネージャー。名古屋グランパス担当時代は、本田圭佑や吉田麻也を若い時代から取材する機会に恵まれる。その後川崎フロンターレ、FC東京、日本代表担当を歴任。その他に『Number』や新聞各紙にも寄稿してきた。現在は『EL GOLAZO』の事業コンテンツ制作や営業施策に関わる。

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