2005年  プロ野球再編とJリーグ シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」

宇都宮徹壱

球界再編元年となった05年

西野監督率いるG大阪が優勝を果たした05年。プロ野球は変革の時を迎えていた 【(C)J.LEAGUE】

 2018年のプロ野球が開幕したのは、3月30日の金曜日であった。折しも、今年からJリーグは「フライデーナイトJリーグ」を打ち出しており、その日はJ1リーグの柏レイソル対ヴィッセル神戸が開催されている。だが地上波のスポーツ番組は、この日のJリーグには歯牙にもかけず、ひたすらプロ野球開幕を寿(ことほ)ぐことに注力していた。Jリーグが開幕して、今年で四半世紀。それでも、まだまだプロ野球の牙城を崩すのは容易ではないことを、あらためて痛感する。

 思えばJリーグは、その設立当初からプロ野球を追い続けてきた。日本プロ野球がスタートしたのは1936年(昭和11年)。それから29年後の1965年(昭和40年)、Jリーグの前身たる日本サッカーリーグが開幕している。実のところ、日本におけるスポーツの全国リーグは野球が最初で、サッカーは2番目。その後、野球とサッカーの人気が一時的な逆転現象を見るのは、93年(平成5年)のJリーグ開幕まで待たねばならない。

 国内リーグのプロ化にあたり、初代チェアマンである川淵三郎とJリーグが徹底したのは「プロ野球を反面教師とすること」であった。その端的な例が「チーム名から企業名を外し、ホームタウン名を入れること」である。これに反発したのが、当時の人気チームだったヴェルディ川崎の親会社である読売グループ、そして読売新聞社社長だった渡邉恒雄である。川淵と渡邉による「ヴェルディ呼称問題」は、そのままJリーグとプロ野球の「文化摩擦」の様相を呈し、両者はまったく相いれないものであるかのように世間には映った。

福岡ダイエーホークスは、親会社の経営難により営業権が譲渡され、「福岡ソフトバンクホークス」として再出発 【写真は共同】

 いささか前置きが長くなった。「Jリーグ25周年」を、当事者たちの証言に基づきながら振り返る当連載。第15回は、2005年(平成17年)をピックアップする。西野朗監督率いるガンバ大阪がJ1初優勝を果たしたこの年、プロ野球界、とりわけパ・リーグは大きな変革のさなかにあった。前年の球界再編問題の結果、大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブが合併して「オリックスバファローズ」となり、50年ぶりの新球団として東北楽天ゴールデンイーグルスが参戦。一方、福岡ダイエーホークスは、親会社の経営難により営業権が譲渡され、「福岡ソフトバンクホークス」として再出発している。

 04年の球界再編問題については、あまりにもテーマが多岐にわたる上、当連載に直接的には関係ないため、ここではあえて触れない。本稿では、一度は「袂を分かった」と思われていたJリーグとプロ野球が、互いの存在価値を認め合い、さらにはアイデアや人材の混交が生まれる契機となった球界再編元年の05年にフォーカス。パ・リーグの球団で大胆な改革を断行した、2人の人物にスポットを当てながら話を進める。いつもとは趣向を変えて、あえてプロ野球側に視点を置くことを、あらかじめお断りしておく。

C大阪の社長、日ハムの社長になる

Jクラブとプロ野球、両方のトップを務めた経験を持つ藤井 【宇都宮徹壱】

 Jクラブとプロ野球、両方のトップを務めた稀有(けう)な経歴を持つ人間が、日本には2人いる。1人は、広島東洋カープ球団社長(74〜81年)とベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)社長(97〜99年)を歴任した重松良典。いまひとりが、今回登場する藤井純一である。日本ハムの本社宣伝室次長だった藤井は、97年に同社が経営に参画していた大阪サッカークラブ株式会社(セレッソ大阪の運営会社)の取締役事業部長となり、00年に社長就任。プロ野球再編問題に揺れた04年に同社社長を退任すると、北海道に移転したばかりの日本ハムファイターズに転じ、常務執行役員事業本部長を経て06年に取締役社長に就任する。

「セレッソの社長を辞めたのが、その年の4月。『君、北海道に行ってくれ』と言われたのは10月くらいで、翌年(05年)の1月1日付で、勝手が分からない北海道に単身赴任となりました(笑)。ファイターズの業績が悪いことは知っていましたし、『自分たちで黒字にして自分たちで稼ぎましょう』というセレッソでやってきたことを、もう一度やればいいんだなと理解しました。サッカーと野球との違いですか? あまり感じなかったですね。どんな競技であれ、スポーツビジネスであることに変わりないですから」

 04年当時の球団の赤字額は、何と40数億円。過去、深刻な経営難に見舞われたJクラブのそれと比べると、桁が1つ違う。新天地に降り立った藤井が、改革のポイントに置いたのが、まず組織の体質改善、そしてファンサービスの充実による集客アップであった。

「とにかく組織の体質がぬるかった。赤字が出れば、親会社から補填(ほてん)してもらえばいいという発想でしたから、まずはそこの改善でしたね。それから集客。僕が社員に常々言ってきたのは『順位に関係なくお客さんは入る。もしお客さんが減ることがあれば、それは地域密着に失敗しているからだ』ということでした。野球とサッカーを比べると、サッカーの方がチームとサポーターの距離が近い。ただ、北海道でも野球ファンは多かったし、地元の人たちはむちゃくちゃ北海道が大好き。それと、野球を見たことがない女性が当時は多かった。ですから女性ファンを取り込むことも、集客のポイントになると考えましたね」

 一般の野球ファンに対し、いかにチームにロイヤルティーを感じてもらえるようになるか。そのために社員一丸で知恵を絞り、さまざまなアイデアを出し、試行錯誤を続けながら、北海道ならではのファンサービスを模索する日々が続いた。そうした努力の結果、藤井が社長に就任した06年の開幕戦、札幌ドームは満員御礼となった。「その年、ファイターズは日本シリーズで優勝しますが、はっきり言って開幕戦が満員になった時の方がうれしかったですね(笑)」とは当人の弁である。

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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