2011年 東日本大震災とJリーグ<前編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」

宇都宮徹壱

2011年3月11日14時46分

2011年3月11日14時46分。ベガルタ仙台の監督だった手倉森誠はホーム開幕戦に向けて、クラブハウスで対戦相手のスカウティングに没頭していた 【宇都宮徹壱】

 その日も、いつもと変わらぬ金曜日となるはずだった。

 鹿島アントラーズの小笠原満男は、翌日の清水エスパルスとのアウェー戦に向けて、チームバスで移動中だった。Jリーグチェアマンの大東和美は、東京・御茶ノ水にあるJFAハウスの9階で執務中。ベガルタ仙台の監督、手倉森誠はホーム開幕戦に向けて、クラブハウスで対戦相手のスカウティングに没頭していた。2011年シーズンのJリーグは、1週間前の3月5日に開幕したばかり。選手、スタッフ、そしてJリーグ関係者。さまざまな立場の人々が、翌日の試合に向けて準備をしていた14時46分、東日本が揺れた──。

「最初に揺れを感じたとき『どうせすぐ止むだろう』と思っていたんです。それが尋常な揺れでないと気付いたときには、壁は割れるし天井は落ちてくるしで大変でしたよ。あの時、スタッフだけで映像を見ていたのですが、選手を集めておかなくて正解でした。みんな一緒だったら、2階の床が抜け落ちていたかもしれない」(手倉森)

「その時は寝ていたので、揺れそのものは感じなかったのですが、バスが高速道路の路肩で停まったので『これはおかしい』と思いました。バスにテレビがあったので、大地震が起こったことがすぐに分かりました。津波の映像もそこで見ました。結局、そのまま鹿嶋まで戻ることになったのですが、到着したのは午前0時を回っていましたね」(小笠原)

「建物が揺れている間、『これはただ事ではない』と直感しました。揺れが収まってから各クラブ、特に東日本のクラブに連絡するようにスタッフに命じました。選手や関係者の安否確認、それからスタジアムの被害状況ですね。その日の16時半くらいには、翌日のJリーグの全試合中止を決定して、全クラブに伝えました」(大東)

「Jリーグ25周年」を、当事者たちの証言に基づきながら振り返る当連載。第14回の今回は、2011年(平成23年)をピックアップする。11年といえば言うまでもなく、東日本大震災があった年だ。3月11日14時46分、宮城県の三陸海岸沖の地下を震源として発生した最大震度7の大地震は、岩手、宮城、福島の東北3県を中心に未曾有の津波被害をもたらし、2万人近い死者・行方不明者を出した。またこの地震と津波により、福島第一原子力発電所でメルトダウンをはじめとする深刻な事故が発生。近隣住民は、長期にわたる避難生活を強いられることとなった。

被災地での手倉森と被災地を思う小笠原

仙台の選手たちは仙台に残って練習の合間に被災地支援を続けた。写真は宮城県石巻市の避難所でバケツリレーを手伝う柳沢敦 【写真は共同】

 1993年のJリーグ開幕から今年で四半世紀。その間、わが国はたびたび深刻な自然災害に見舞われてきた。震度7以上の地震に限っても、95年の阪神淡路大震災、04年の新潟県中越地震、11年の東日本大震災、そして16年の熊本地震と4回も発生している。そのたびにJリーグは、チャリティーマッチをはじめとする被災地支援活動をする一方で、さまざまな決断を求められてきた。その中でも、とりわけ被害が甚大かつ広範だった11年の大震災は、Jリーグの存在価値が試されるくらいの危機であった。本稿では、被災地出身の選手(小笠原)、被災地クラブの監督(手倉森)、そしてJリーグのトップ(大東)、それぞれの証言からこの年を振り返ることにしたい。

「震災から10日くらいは、僕自身も被災者でしたね。給水所で地元の人たちと一緒に並びましたよ。その時に言われたのは『ベガルタは仙台に居てくれよ』と。どういう意味かというと、ちょうどキャンプ中だった楽天イーグルスが、しばらく戻らないという決断をしたんですよね。それもあってチームが再始動してからは、仙台に残って練習の合間に被災地支援を続けました。サッカー教室をやったり、泥かきをしたり。石巻や南三陸にも慰問で行きました。まだ津波の爪痕が生々しいころで、選手も僕もショックを受けました。『一緒に頑張りましょう!』と励ますつもりが、逆に被災地の方々に励まされましたね」

 仙台の手倉森が、まだ被災者同様の日々を送っていたころ、東北への想いを募らせていたのが、岩手県盛岡市出身の小笠原である。「自分に何かできることがないか」と考えると、居ても立ってもいられなかった。すると震災から4日目の15日、クラブは活動の無期限停止を発表する。鹿島を含む茨城県もまた、鉄道が寸断されたり断水が続いたりと被害は深刻であったが、それ以上に懸念されたのが隣県で起こった原発事故の影響。チームはいったん解散し、オズワルド・オリヴェイラ監督やブラジル選手も離日した。小笠原はすぐさま、強化部長の鈴木満に「被災地に行かせてほしい」と直訴する。

「ちょうどそのころ、新潟や秋田を経由すれば車で被災地に行けるという話を聞いたんです。それで満さんに自分の気持ちを伝えたら、最初は猛反対されましたね。次に地震が来たら、また津波が来たらどうするんだと。それでも最後は理解していただいて、妻の実家がある陸前高田へ家族全員で向かいました。津波の被害はギリギリ免れたので、しばらく妻の実家に滞在しながら、親戚や近所の知り合いに物資を配っていました。物資がなくなったら、盛岡まで車で買い出しに行って、ということを1週間くらい続けていましたね」

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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