2008年 大分の「夢の後始末」<前編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」

宇都宮徹壱

2008年11月1日、晴天の国立競技場にて

青野は「このクラブは、どんなことがあっても存続させなければならないと感じた」と話す 【写真は共同】

「あの年は大分国体があったのですが、私は(県庁の)国体式典担当をやっていました。それが終わってホッとしたところで、いちファンとして気楽な気分で決勝戦を見ていましたね。スコアは2−0でしたっけ。ものすごく天気が良かったことを覚えています。自分がトリニータの社長になることですか? もちろん考えもしなかったですよ(笑)」

 晴天の下、国立競技場で開催された2008年11月1日のナビスコカップ(現ルヴァンカップ)決勝。大分トリニータと清水エスパルスというユニークな顔合わせは、高松大樹とウェズレイのゴールで大分が2−0で勝利した。この結果、Jリーグのタイトルが初めて大分に、そして九州にもたらされる。決勝の思い出を懐かしそうに語るのは、大分の現社長である榎徹。一方、隣に座る前社長の青野浩志は、より感慨がひとしおだった様子。県の文化スポーツ振興課参事として、クラブの厳しい経営状況を目の当たりにしていただけに、無理もない話だ。

「あの年、トリニータは最終的に(J1で)4位になりましたし、ナビスコの決勝に行きました。確かに素晴らしいことだったけれど、当然勝利給のことも考えないといけないし、選手の年俸も上げなければならない。ですから(試合中も)資金繰りのことがずっと頭にありました。それでも優勝が決まった瞬間は、やっぱりうれしかったですね。このクラブはどんなことがあっても存続させなければならない──。そう思いました」

晴天の下、国立競技場で開催された08年11月のナビスコカップ決勝。大分は2−0で清水を下し、初優勝を果たした 【写真は共同】

「Jリーグ25周年」を、当事者たちの証言に基づきながら振り返る当連載。第13回の今回は、08年(平成20年)をピックアップする。北京で夏季五輪が開催され、リーマンショックが世界経済に大打撃を与え、米大統領選挙でバラク・オバマが当選したこの年。J1リーグでは鹿島アントラーズが2連覇、そしてガンバ大阪がACL(AFCチャンピオンズリーグ)初優勝を果たしている。だが、この年のJリーグを象徴するトピックスといえば、何と言っても大分のナビスコカップ制覇であろう。

 94年に大分フットボールクラブとして設立され、同年に県1部からスタート。それから14年後の08年にはJ1で4位に上り詰めてタイトルまで獲得した。プロスポーツ文化不毛の地に生まれ、02年ワールドカップ(W杯)の追い風を受けて行政の全面支援の下、一気にカテゴリーを駆け上がっていった大分。その特異な出自と驚異的な成長の物語は、これまでさまざまなメディアで取り上げられてきた。しかし今回フォーカスするのは、そのサクセスストーリーではなく、むしろ「夢の後始末」についてである。

インバウンドに情熱を燃やす大分の元社長

ナビスコカップの優勝報告の後、サポーターに祝福される溝畑(中央)。翌09年には放漫経営の責任をとる形で社長を辞任している 【写真は共同】

 両手に買い物袋を下げて大声で談笑する中国人の団体客。ラーメン屋で「豚肉は入っていないか?」と念押しするマレーシア人のカップル。私が利用するビジネスホテルでも、最近は英語と中国語が話せるスタッフが常駐するようになった。ここ数年のインバウンド効果で、大阪の街並みはすっかりコスモポリタンの様相を呈している。私がこれから向かうのは、当地のインバウンドの旗振り役である大阪観光局。この日、局長の溝畑宏にインタビューすることになっていた。

 前の会議が押しているとかで、約束の時間から10分ほど経ってから溝畑が姿を現す。開口一番「いやあ、お久しぶり! お互い歳を取りましたなあ(笑)」。髪型は隨分と変わったが、ざっくばらんな口ぶりとテンションの高さは、大分FC社長時代とまったく変わっていない。私がこの人に話を聞くのは08年の夏以来。実に10年ぶりの再会である。

 あらためて、溝畑の数奇なキャリアを振り返っておこう。東京大学法学部から当時の自治省に入省し、90年に大分県庁に出向。企画部次長時代、大分FCを立ち上げるとともに、02年のW杯日韓大会の大分開催に尽力する。99年に自治省に復帰するも、翌年には再び大分県に出向し、そこからさらに大分FCに出向。04年にクラブの代表取締役となり、06年には社長業に専念するために公務員を辞めてしまう。

数奇なキャリアを持つ、大分の元社長・溝畑宏。「あってはならない経営」はなぜ起こってしまったのだろうか。 【宇都宮徹壱】

 そして前述のとおり、08年にクラブはナビスコカップ優勝を果たすも、翌09年には放漫経営の責任をとる形で辞任(事実上の解任)。以後、観光庁長官を経て15年に現職に就いている。まずは現在の仕事について尋ねてみると、溝畑は「大分で学ばせていただいたことが、観光の仕事でも生かされていますよね。本当にありがたいことです」と語り、こう続けた。

「やはり観光の原点は『地域に元気を与えること』なんですよ。どうやってローカルなものを世界的なものにしていくか。私が大分トリニータを通して学んだことは、まずは改革、夢に向かってチャレンジすること。それから人を巻き込む力、いつまでに達成するかという目標設定、この4つです。94年にチームを作ったときにも『02年には必ずJ1に上がっています』と大見えを切ったんです。当時は『こいつ、頭がおかしいんじゃないか』と思われたでしょうね。それでも私は、そういった目標設定を常に掲げてやってきました。もちろん、周囲のプレッシャーや抵抗も大きかったですが」

 クラブ社長の座を追われて早9年。それでもこの人にとって、大分での濃密な日々は多くの痛みを伴うものではあったにせよ、やはりかけがえのないものであったのだろう。言葉の端々からも、かつて愛した地域への感謝の念が伝わってくる。ならば聞きたい。大分での最後の1年で味わった「天国と地獄」は、本当に不可避なものだったのか? そしてJリーグが断じるところの「あってはならない経営」は、なぜ是正されることなく、奈落に落ちるまで突き進んでしまったのだろうか?

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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