2011年 東日本大震災とJリーグ<後編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」

宇都宮徹壱

3.29チャリティーマッチ、それぞれの記憶

途中出場のカズが決めたゴールは、この試合のクライマックスだった 【写真:アフロ】

 2011年3月29日、長居スタジアムで開催された日本代表とJリーグ選抜とのチャリティーマッチ。日本代表の2点リードで迎えた後半37分、途中出場のカズ(三浦知良)が決めたゴールは、この試合のクライマックスであり、勝敗を超えて国民的な記憶となった。個人的な記憶を記すならば、記者席から見たスタジアムの照明が、やたらまぶしく感じられたことが強く印象に残っている。当時、東北と東京両電力管内では原発停止による節電が実施され、夜の東京は深い闇に沈んでいたからだ。では、スタメン出場していた小笠原満男は、この試合にどんな記憶があるのだろうか。

「試合前、みんなが気遣ってくれたことですかね。カズさんからも『大丈夫か? 俺ができることがあれば言ってくれよ』って言われて。そうやって親身になってくれたことがうれしくて、逆に試合のことはほとんど覚えていないです(苦笑)。あまり寝ていないし、まともに食事もとっていないし、フラフラになりながらプレーしていましたから」

 仙台では、手倉森誠がこの試合をテレビ観戦していた。試合内容もさることながら、チームから送り出したリャン・ヨンギと関口訓充のことが気になっていたようだ。この試合、リャンは背番号10を付けてスタメン出場。関口は後半17分、メンバー5人を入れ替えた際にピッチに送り込まれている。

「まあ、奇妙な光景でしたね。日本代表が日本人のチームと試合しているという。でも、ああいう大変な時だったからこそ成立した試合だったとも思います。(リャンと関口については)とにかく、けがをしてほしくないという思いで見ていました。ほとんど練習していない状況で、試合に臨んでいましたから。ですから彼らを送り出す時も、『被災地のために頑張れ』みたいなことは、あえて言いませんでした」

このチャリティーマッチの入場者数は4万613人。試合開催による収益は1億1349万8492円に達した 【写真:アフロスポーツ】

 このチャリティーマッチの入場者数は4万613人。試合開催による収益は1億1349万8492円に達した。また、募金やグッズ販売などによる5000万円の収益は、新たに創設された「サッカーファミリー復興支援金」に充てられ、残りは日本赤十字社に寄付されることとなった。試合後、チェアマンの大東和美はJリーグを代表して、チャリティーマッチに参加してくれたすべての関係者に深々と頭を下げたという。

「試合が終わってから、選手やスタッフ、そして募金活動を頑張っていただいた(元日本代表の)OBの皆さんに感謝の気持ちを込めてお礼を申し上げました。バタバタでスタートしましたけれど、あれだけたくさんのお客さんに来ていただきましたし、全員が一生懸命サッカーをやってくれたので試合も盛り上がりました。何より、サッカー界が他のスポーツに先駆けて、みんなの力でチャリティーマッチを実現できたことが良かったと思います」

6位に終わった鹿島、4位に大躍進した仙台

「なるべく早くリーグ戦を再開したいという思いはありました」と当時チェアマンだった大東和美は回想。だが、関係者はさまざまな調整作業に追われることとなる 【宇都宮徹壱】

 かくして、震災発生からわずか18日後に開催されたチャリティーマッチは、一定以上の成果を収めることとなった。とはいえ、この年のJリーグの正念場は、むしろシーズン再開後であったと言っても過言ではない。リーグ戦の再開日は、すでに3月22日の時点で「4月23日」と発表されていた。だが、節電対策によるナイトゲームからデーゲームへの変更、あるいはスタジアムの被災による会場の変更など、さまざまな調整作業に関係者は追われることとなる。以下、大東の回想。

「われわれとしては、なるべく早くリーグ戦を再開したいという思いはありました。とはいえ、被災したクラブの事情も考慮しなければなりませんし、被害を受けてすぐには使えないスタジアムもありました。それから7月に予定されていた(アルゼンチンでの)コパ・アメリカ出場についても、JFA(日本サッカー協会)との間でいろいろなやりとりがありました。(延期分の試合を7月に開催したいという)こちらの事情を理解していただき、(出場を)断念していただくことになりました」

 変則的な日程や会場の変更は、当然ながらチームや選手にも少なからずの影響を及ぼすこととなった。毎年のように優勝候補と目されていた鹿島アントラーズは、このシーズンはナビスコカップ(現ルヴァンカップ)で優勝したものの、リーグ戦は6位と振るわず。カシマスタジアムが被災したことにより、6月15日まで使用できなかったことも、不本意な戦績に終わった理由の1つに挙げられよう。その事実は認めつつも、小笠原は気丈にもこう語る。

「もちろん僕らとしても、しばらくホームで戦えなかったことはすごく残念でした。けれども、それを言い訳にするべきではないとも思いました。それに茨城には、東北ほどではないにしても被災した人たちがいましたし。ですから僕らが頑張ることで、その人たちを喜ばせたり元気づけたりしたい、という思いのほうが強かったですね」

 一方、手倉森率いるベガルタ仙台は、開幕から12試合連続無敗(6勝6分け)を記録し、リーグ序盤戦は上位争いに食い込んだ。その後は失速したものの、最終順位は過去最高の4位(当時)。前年が14位で、その前がJ2だったことを考えれば、誰もが予想し得なかった大躍進であった。この快進撃を支えたのは「負けたくない」という思いだったと、指揮官は振り返る。

「あのころは『勝たなきゃいけない』というよりも、『負けたくない』という思いのほうが強かったですね。震災によって、われわれは人間の非力さというものをとことん味わいました。天災は日本のどこでも起こり得るし、人間は絶対に自然には勝てない。だからこそ、誰もが『震災には負けたくない』という気持ちになりました。あのシーズンは、負けない試合が続きましたけれど、ほとんどの試合は僅差だったんです。『1点リードしたら、絶対に守り切ろう!』みたいなしぶとさは、確かにあったと思います」

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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