2008年 大分の「夢の後始末」<後編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」
新社長の最初の仕事は「監督の解任」
12年のプレーオフ決勝で千葉を1−0で下した大分。この試合は大分の「伝説」になっているという 【宇都宮徹壱】
2017年11月19日、大分トリニータがホームでJ2最終節を勝利で飾った日、社長の榎徹はセレモニーのあいさつでこのように述べている。J3から奇跡の復帰を果たし、J2で1桁順位(9位)というのは決して悪い戦績ではない。だが、12年のJ1昇格プレーオフのドラマを共通体験としている大分の人々にとって、プレーオフ圏内の6位でフィニッシュできなかったことは、少なからぬ落胆となったはずだ。
12年のプレーオフ優勝は、08年のナビスコカップ(現ルヴァンカップ)優勝と並ぶ大分の「伝説」となっている。08年の立役者が溝畑宏なら、12年のそれは榎の前任(そして溝畑の後任)の青野浩志である。溝畑が事実上の解任となったことを受けて、県庁からクラブに出向していた青野が新社長に就任した時、関係者はこの人事に驚いた。県のスポーツ振興課時代から「お目付け役」となり、クラブに出向中だったとはいえ、プロスポーツクラブの経営はまったくの素人。青野自身も予想外だったという。
社長となった青野の最初の仕事はポポヴィッチ監督(写真)に解任を伝えることだった 【(C)J.LEAGUE】
社長となった青野の最初の仕事は、ランコ・ポポヴィッチ監督に解任を伝えることであった。成績不振で解任されたシャムスカに代わり、09年7月25日から16試合を指揮して6勝5分け5敗。それまで勝ち点7しか積み上げられなかったことを思えば、ポポヴィッチがいかに有能だったかは明らかである。しかし有能であるがゆえに、破綻寸前の大分では支えられない指揮官でもあった。それは選手も同様で、西川周作、森重真人、清武弘嗣、金崎夢生、エジミウソンといった主力を手放さざるを得なかった。西川、森重、清武、金崎はのちに日本代表として同じピッチにも立っている。
「チーム編成をする余裕なんてなかったですよ。10年は残ってくれた選手を中心に、補強もユースからの昇格や大卒選手で何とかしのぎました。良い選手を引っ張ることはできないから、若手を育てることに注力するしかない。それで、育成に定評のある監督として田坂(和昭)さんが来てくれた。ですから、本格的なリスタートは11年からでしたね」
なぜ募金で1億円以上を集めることができたのか?
のちに青野(右)のポストを引き継いだ榎。クラブライセンス制度の導入に、悲観的な見方しかできなかったと話す 【宇都宮徹壱】
「あれは経営再建に影響しましたね。一番困ったのは、当時9億円近くあった債務超過を15年の1月にゼロにしなければならないこと。つまり4年でやらなくてはいけない。加えて、Jリーグへの6億円の返済もある。1億、2億、3億の分割だったんですが、12年の3億はきつかった。今だから言いますが、当時は『絶対に無理』だと思っていました」
のちに青野のポストを引き継ぐことになる榎は、当時は文化スポーツ振興課の課長として、青野の重要なブレーンとしての重責を担っていた。その彼も、当初はクラブライセンス導入に悲観的な見方しかできなかったという。
「08年にナビスコを取ったことによって、クラブは県民にとって誇れる存在になっていたのではないか」と青野は分析する 【(C)J.LEAGUE】
それでも行政と地元経済界から、それぞれ1億円ずつを集めるめどは立った。問題は、残り1億円をどうするか。そこで青野と榎が着目したのが、同じ12年シーズンから実施されるJ1昇格プレーオフ。ストレートでの昇格を逃しても、リーグ戦で6位以内にすべり込めばJ1昇格の可能性は残る。そこで「J1昇格支援金」として、ひと口5000円の募金活動を行うことにした。クラブの借金返済のために、県民に募金を呼びかけることの是非は確かにあった。それでも背に腹は代えられない。結果として3カ月で、1億2400万円もの寄付が集まった。金策に奔走した日々を振り返りながら、青野は語る。
「今にして思うと、08年にナビスコを取ったことによって、クラブは県民にとって誇れる存在になっていたんだと思います。普段はサッカーを見ない、あるいは興味がない人でも、『5000円くらいだったら』とか『5人で1000円ずつ出し合って』みたいな話をあちこちで耳にしました。08年の優勝がなく、リーグ戦もJ1の下位とかJ2とかで低空飛行を続けていたら、あの1億円は集まらなかったと思います」