2005年 プロ野球再編とJリーグ シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」
元野球少年、千葉ロッテの企画部長になる
ロッテの企画部長を務めた荒木。「Jリーグのような応援を『360度にする』ことがテーマになった」という 【宇都宮徹壱】
現在、株式会社スポーツマーケティングラボラトリー(SPOLABo)の代表を務める荒木重雄は、幼少のころより根っからの野球少年であった。高校時代、群馬県予選で前橋工業の渡辺久信(のちに埼玉西武ライオンズに入団)の球威に圧倒された経験を持つ。その後「自分の野球人生にケリをつけるため」、高校3年の秋に読売ジャイアンツの入団テストを受験し、最終審査の2人まで残るも、膝のけがもあり途中離脱。大学卒業後は、野球とは関係のない外資系企業を渡り歩いた。しかし04年の球界再編を機に、故広瀬一郎が主催するSMS(スポーツマネジメントスクール)で学び、05年に千葉ロッテマリーンズに「企画広報部長」として招かれる。しかし、ここからが悪戦苦闘の連続であった。
「最初にやったことは、パソコンの購入でした。オフィスに共有用のパソコンが1台しかなくて、ネットも『ピーヒャラヒャラ』のアナログ回線だったんですよ。スタッフもメアドを持っていなかった。05年の話ですよ! すぐに知り合いをスタッフに入れて、彼にIT周りを全部やってもらいましたね。一方で、球団の認知度は地元でも著しく低かった。駅前でアンケート調査をしても、エースの名前どころか、球場があることさえ知らない人もいました。当時の千葉市長からも『千葉市民はみんな巨人ファンだよ』と言われて、これは厳しいぞと」
半世紀ぶりの新球団・楽天をマリンスタジアムに迎えた05年の開幕シリーズは満員となった(写真は当時) 【写真は共同】
「半世紀ぶりの新球団ということで、メディアの露出が多かったから、その注目度に乗っかるしかないと思いました(笑)。おかげで開幕シリーズは満員になりました。そこからさらにスタンドの熱量を上げるために、ファンにユニホームを着て応援してもらうことを考えました。サッカーの12番に該当する番号は26番。(ベンチ入りが25人のため)それを永久欠番にしました。やがてレプリカを着たお客さんも増え始めて、外野スタンドだけでなく内野スタンドも含め「声」で圧倒する、今のようなスタイルが実現しました。応援のスタイルという点では、Jリーグからかなりヒントをいただきましたね」
Jリーグの要素をヒントに集客を増やしたパ・リーグ
Jリーグをヒントに集客を増やしたパ・リーグ。その効果は数字にも表れている 【写真は共同】
11年に日ハムの社長を退任し、その後は大学でスポーツマネジメントを教えている藤井は、パ・リーグの入場者数増加について2つの要因を挙げている。
「ひとつは各球団とも、マネジメントやマーケティングができる人材を確保できるようになったということ。もうひとつは、競技の垣根を越えて、人材が流動的になってきたこと。セレッソの事業部長(成田竜太郎)は、ファイターズでは首都圏事業部長でした。そういうケースは、プロ野球、Jリーグ、そしてBリーグと、いたるところで見られる。しかも昔と違って、皆さんすごく優秀だし、英語も当たり前にできる。昔みたいに、野球が好き、サッカーが好きだけでは、もう通用しないんですよね」
一方、ロッテ時代に球団の売上を3年間で4倍に伸ばした実績を持つ荒木は、パ・リーグが成功した大きな要因を「球団・球場一体経営」であるとしている。
「6球団のうち、日ハムを除く5球団は実質的な自前スタジアムを持っています。実質的という意味は、必ずしも自前スタジアムではなくても、契約上自由に使え、事業権も保有できているスタジアムという意味です。球場の収入が1、球団の収入が1で一体経営にすると2ではなくて、これが3にも4にもなる。日ハムの新球場構想も、こうした考えに基づくものですよね。
Jリーグの場合、ほとんどが自治体の持ち物を使用し、賃貸型の契約をしています。自治体の発想は、安心・安全・安定の『トリプルA』なんですよ。でも、本来スタジアムに求められるのは、感動・興奮・記憶の『トリプルK』じゃないですか。自治体に新しいスタジアムを作ってもらうにしても、本気で『トリプルK』を目指すのであれば、『公共性』の定義を変えなくてはいけないと思います。そして、それらを実行する新たな発想を持った人材も重要になってきます」
93年の開幕時、旧態依然としたプロ野球へのアンチテーゼとして注目されたJリーグ。その後は人気に陰りが見られたものの、04年の球界再編の際には、球団合併や1リーグ制の議論があまりにもファン不在であったため、「Jリーグを見習うべき」という論調が目立つようになった。しかしその後、パ・リーグの球団を中心に、地域密着やファンサービスの概念が取り入れられ、さらに進化させたことで、再びJリーグはプロ野球人気に大きく水をあけられることとなった。その起点となったのが、05年という年だったのである。
<この稿、了。文中敬称略>