2008年 大分の「夢の後始末」<後編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」
Jリーグ全体に突きつけられた「夢と経営のバランス」
J3降格を経験した大分だが、榎はさほどの悲壮感はなかったという 【(C)J.LEAGUE】
「13年のJ2降格は想定内でした。もちろん悔しかったですよ。手元にキャッシュもありましたが、あそこで無理に補強して利益が減ったら、残り1年で(債務の)6億を返済できなくなります。13年に減資をして、14年4月の株主総会での承認をもって、債務超過は解消できました。クラブライセンスの問題がクリアされたので、15年はお金をかけてプレーオフを狙えるくらいのメンバーをそろえたつもりだったんです。それなのに(J3に)降格して……。やっぱりサッカーは難しいなと」
かくして、クラブ存続を最大の使命と自らに課してきた青野は、この15年をもって辞任。またしても後任人事は難航し、再び県庁から今度は榎が送り込まれることになる。決まったのは、発表前日のこと。しかし榎自身は、さほどの悲壮感はなかったという。
「確かにJ3に降格しましたし、選手もかなり入れ替わりましたが、そんなに悲観はしなかったですね。片野坂(知宏)監督には『選手を育てながら、結果を出してください』とお願いしました。そもそも明日のお金を心配することなく、数年先を見通すことができるのは、本当に幸せなことですよ。そういう基盤を作ってくれた青野さんには感謝しています」
16年シーズン、大分は奇跡の逆転劇でJ3優勝を果たした 【写真:フォトレイド/アフロ】
「功については、サッカー文化がまったくない大分に、ゼロからプロサッカークラブを作ったこと。もちろんW杯開催ということもあったでしょう。それでも、われわれだったら『絶対に無理だ』と尻込みするようなことをバーンと突き抜けられたのは、溝畑さんだからできたことだと思っています。罪については、彼が経営者でなかったこと、これに尽きます。マイナス累積17億円、債務超過12億円という数字が、すべてを物語っています」
クラブはファンに夢を与える存在であり、同時に地域で持続していくべき存在でもある。「夢を実現するための放漫経営」と「持続のみを目的とした緊縮経営」という、極めて両極端な歴史を短期間で経験した大分トリニータ。その分水嶺(ぶんすいれい)となったのが、08年のナビスコカップ優勝であった。そして「夢と経営のバランス」は、大分のみならずJリーグ全体に突きつけられたテーマとして、今なお存在し続けている。
<この稿、了。文中敬称略>