笠置山に菊の秋◎ポポカテペトル 「競馬巴投げ!第154回」1万円馬券勝負
何で桜の季節に菊水賞なの?
[番外写真]笠置山 【写真:乗峯栄一】
しかし楠正成はよく知られているように、もともと河内の国(現大阪府)千早赤坂の土豪だし、湊川以外、いまの兵庫県内で戦った記録もあまりない。兵庫県NO.1のヒーローにするのも、楠を兵庫県の県木にするのも、若干無理がある気がする。
さらに湊川の戦いは建武三年(1336年)の5月末であり、正成が初めて後醍醐天皇に謁見したのは元弘元年(1331年)の9月初旬であり、「菊水賞」が4月初めに行われるというのはあまり必然性がない気がする。
5年前の秋、初めて笠置山(かさぎやま)に行った。[番外写真・笠置山]
京都競馬場の西で桂川、宇治川と合流する木津川だが、その源は三重県の鈴鹿山中にある。京都府と奈良県の境を流れながら「南へ下って大和川水系に合流しようかなあ? それとも北へ上って淀川水系に合流しようかなあ?」などと思わせぶりなことを言いながらズルズル進むが、誰も相手しない。わずかに淀の巨椋池(おぐらいけ・今は干拓されて京都競馬場南の広大な農地になっている)に水が溜まっていると聞くやいなや、京都府南部、ほとんど奈良県境に近い上狛(かみこま)という所で、90度に近い角度で曲がって北進し、淀競馬場のすぐ西まで来る。
その90度に曲がる前の中流域河岸に笠置山はある。高さ300メートルぐらいだろうか、こんもりした感じのほんとに小さな山だ。平安時代の頃から頂上付近の花崗岩に掘られた磨涯仏(まがいぶつ)で有名だったようだが、南都奈良と京都のちょうど中間にある仏跡という評判以外、さして人民を引きつける伝説もない。
元弘元年(1331年)、後醍醐天皇は手勢わずか300人でこの山に籠もり、北条氏の鎌倉幕府に叛旗を翻す。関東から鎮圧に向かってくる北条軍は10万である。だいたいなぜこんな小さな山を蜂起の場所として選んだのか、それが最大の疑問である。
「太平記」には、南都で旗揚げしようとしたが、東大寺には北条氏の息のかかったものがいて果たせず、うろうろしているうちに「笠置山に行け」と夢告があったとだけ書いてある。
「どういう訳か笠置山の夢を見てしまって」
[写真1]アルアイン 【写真:乗峯栄一】
「あ、頂上に行かれるんですか?」
たぶん制服だろう、紺のベストを着たお姉さんが声を掛けてきた。平日だったこともあって麓の集落は静まりかえっている。付近で初めて見る人の姿だ。
「車でも大丈夫ですよ」とお姉さんは微笑む。胸には「笠置山観光協会」の名札が付けてあるのだが、ベストの下のブラウスが膨らんでいて、名札が斜めになっている。
「でも対向車でも来たら」と彼女の方を見ると「来させません」と微笑む。来させませんって、え? どういうこと?
「もしよかったら、後醍醐天皇の行宮(あんぐう)ご案内しますけど」
助手席に乗った彼女は、何というか、膝が徐々に運転席の方に寄ってくる。ブラウスの上の方のボタンが外されていて、白い胸の一部がチラチラ見える。油断していたら谷に落ちそうな道だから、気を逸らしたらいけないのに、困ったことだ。しかしほんとうに対向車は一台も降りて来ない。
「今日はまたどうして笠置山へ?」と彼女が聞く。
「あ、いや、昨日淀の菊花賞行って、帰りに友達と飲んだんで車で帰れなくなって、ホテルで泊まったら、どういう訳か笠置山の夢を見てしまって」
「後醍醐天皇と同じですね、ふふふ」と笑う。笑うと、彼女の胸の名札とベストが揺れる。そのとき名札に「くすのき」と書いてあるのに気づく。
「え? くすのきって言うんですか、名前」
「笠置山の案内人がくすのきって、出来すぎよね」