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ピオネロ(先駆者)アシヤもきっと応援
「競馬巴投げ!第150回」1万円馬券勝負

栗東トレセン食堂にいる“キクばあ”

[写真1]クリノスターオー
[写真1]クリノスターオー【写真:乗峯栄一】

 栗東トレセンの調教スタンドには、厩舎スタッフとマスコミ関係者用の食堂がある。食堂といってもメニューは天ぷらウドンとキツネウドンとコーヒーだけ。朝5時に開店、8時にはもう店じまいするという異例時間帯かつ極めて短時間集中型の食堂である。


 時々「トレセンのウドンは絶品だ」などという評を競馬コラムなどで見かけることがあるが、そんなことはない。味はしれている。


 しかしこの時間帯というのは、厩舎スタッフは「うちの馬鹿テキにも参るよ、坂路五頭だぞ、もうクタクタ」と愚痴をこぼすし、マスコミ取材者も「あの馬鹿騎手が天狗になりやがって」と憤然と帰ってくる。つまり「絶品」評は、そういう「馬鹿」に愛想を尽かし、腹ぺこになって集まってきた人間の溜まった労働疲労とストレスが言わせている。


 しかし、おかげでこの独占ウドン屋は大した企業努力もなしに“売り手市場”を形成している。


 カウンターの向こうには半袖の白衣から太い二の腕をのぞかせて客たちを睥睨(へいげい)する“キクばあ”というオバチャンがいる。売り手市場を象徴する名物オバチャンである。


 キクばあは「いらっしゃいませ」などとは決して言わない。カウンターに片方のヒジをつき、ハスに構えて客を見る。世間にウドン屋多しといえども、店主がカウンターの向こうから客を睨み上げるという店はここだけだろう。


「おはよう。クニヒコ君」


 例えば通り過ぎようとする若手騎手がいれば野太い声を掛ける。これをあえて企業努力といえばいえるかもしれないが、キクばあは実によく関係者の名前を覚えている。その名前を決して媚びをうらず、ゆっくりうなる。


 これだけで例えば色白、大人しい騎手などは、まるでハエ取り紙に吸い寄せられるハエのようにカウンターに近づいてくる。


「あ、何だかお腹が空いたような……」


 寄ってくる色白騎手にキクばあは黙って、一番高い天ぷらウドンと、ゆで卵と、コーヒーの札を押し出す。


「ええっと天ぷらウドンと、ゆで卵と、それに何だかコーヒーも飲みたくなってきた」


 色白騎手はまたまた口走る。すべてキクばあの台本通りである。

ムカーッ。あんたはトレセン警備室長か

[写真2]ピオネロ
[写真2]ピオネロ【写真:乗峯栄一】

 ぼくなどのような、GIの週だけ行くような者も例外ではない。


「あんた、見慣れない顔やねえ。東京(の新聞)?」


 こちらの顔とマスコミ取材章を見ながら、キクばあが太い声で聞く。


 もう二十年近く前になるが、これがキクばあから聞いた最初の言葉だった。「いらっしゃいませ、ありがとうございます」などという普通の店の言葉などキクばあの辞書にはない。


「あ、いや、大阪のスポニチ」としどろもどろになって言う。


「見かけない顔や」


 キクばあはカウンターの向こうから片ヒジついたスタイルでこっちを見る。


「サボってんのと違う?」


 ムカーッ。あんたはトレセン警備室長か。なんであんたの検問を受けないといけないんやとむかつく。


 しかし、出てくる言葉は「いや、記者じゃなくて素人なもんで、ハハハ」という卑屈な笑いだ。自分でも情けない。


「素人? スポニチがなんで素人雇ってんの」


「いや、素人だけど、けっこうやったりするんです」


 キクばあの追求に意味不明のことまで口走る。


 あとはもう敵の思う壺である。グイと押し出された札を見て「天ぷらウドンとコーヒーと、あ、それからゆで卵ももらおうかな」と食べたくないものまで注文してしまう。


「850円」といつものように、キクばあは「ありがとう」の一言もなしに金額だけ宣言する。

乗峯栄一
乗峯栄一
 1955年岡山県生まれ。文筆業。92年「奈良林さんのアドバイス」で「小説新潮」新人賞佳作受賞。98年「なにわ忠臣蔵伝説」で朝日新人文学賞受賞。92年より大阪スポニチで競馬コラム連載中で、そのせいで折あらば栗東トレセンに出向いている。著書に「なにわ忠臣蔵伝説」(朝日出版社)「いつかバラの花咲く馬券を」(アールズ出版)等。ブログ「乗峯栄一のトレセン・リポート」

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