花城桜子が思い描く明るい未来 フィギュアスケート育成の現場から(11)
進まなかった選手登録
花城桜子は「沖縄に来て、先生がいること、仲間がいる大切さが身にしみた」と語る 【提供:花城桜子】
沖縄県にも、スケートリンクがあった。県の連盟も、スケートクラブもあった。
花城桜子は、選手登録を行おうとした。フィギュアスケートの場合、選手として活動していくには、日本スケート連盟への選手登録が必要であり、それは毎年一度は行う必要があるものだった。
ところが、それは容易ではなかった。
手順を踏んでいるはずなのに、進まなかった。宮城県のときと同様に行っているはずなのに、どうして登録が簡単ではないのか、いや、できないのか、理解できなかった。
それを不思議に思う人たちもいて、相談にのってくれた。学校の先生、政治家、宮城県人会、応援してくれる人や手を貸してくれる人たちがいた。
その末、ようやく「那覇国際高校FSC」所属として、選手登録へとこぎつけることができた。
そして花城は練習を続けてきた。
指導者、仲間がいる大切さを実感
佐藤氏に指導を依頼すると引き受けてもらえた。佐藤氏が神戸に移ったあとも、月に一度、指導を受けてきた。
と言っても、仙台にいた頃の競技環境とは大きく異なることに変わりはない。
その違いを、花城自身、感じてはいた。
「恵まれていないなんて思っていないと言ったら嘘になりますが、沖縄に引っ越してきた時点で、仙台みたいに先生がいて、切磋琢磨(せっさたくま)する仲間がいて、あちこちから合宿で来る子たちがいて、という環境はもうないと覚悟していました。仙台のときのような競技環境をなくしてから、先生がいること、仲間がいる大切さが身にしみました」
沖縄で過ごす日々は、選手のことを思ってきちんと教えてくれる指導者がいるのがどれほど大きいことか、仲間がいる意味を実感する時間でもあった。
「でも」と続ける。
「もちろん恵まれた環境ではないけれど、その中で、できることをしなければいけないと思いました」