競技者であり続ける恩田美栄 フィギュアスケート育成の現場から(6)

松原孝臣

「教えるのは簡単なことじゃない」

指導者としての道を選んだ恩田美栄だが、すべてが順調であったわけではなかった 【積紫乃】

 2002年のソルトレイクシティ五輪出場をはじめ、国内外の数々の大会で活躍。07年春に競技生活から退いた恩田美栄は、その後、指導者を志し、08年5月には「スペリオール愛知FSC」を立ち上げた。

 競技へのこだわりから、プロフィギュアスケーターよりも指導の道を選んだ。
 今日まで教え続ける中で、すべてが順調であったわけではなかった。

 選手とコーチの立場の違いを痛感したのもその1つだ。
「現役のときは、ただ練習すればいいと思っていたから、コーチになっても、『練習しなさい』と言えばするものと考えていたんですね。だから初めの頃は、『右向け、右』みたいな感じでやっていました」

 だが、そうではなかった。

 選手であった頃は、自分がどれだけ頑張ればいいかを考えていればよかった。しかし、何人もの生徒を教えるとなれば事情は異なってくる。1人ひとり性格は違うし、同じアドバイスをしても、受け止め方が変わってくる。その日その日で気持ちも違う。

「例えば、こういう状況ならこんな精神的な状態にあるという選手時代の経験を持っていても、教えている生徒には当てはまらなかったりするということに気づきました。それを知る前は、『こうしなさい』と言っても、それが砕かれるようなことがありました。コーチは単に教えるだけじゃいけないんだと、何年もかけて分かってきました。

 だから、一見スケートとは関係ない話をしたりして、コミュニケーションをとるようにしています。始めた頃には思ってもいなかったですけどね。本当に教えるのは簡単なことじゃない。一番しんどいのは、年に3回くらいあります。自分のやってきたこと、やっていることが正しいのか、自分に問い掛けるときです。そのときが大変かな」

フィギュア人気の実感はあまり感じられない

 それでも、気持ちが切れることはなかった。

「大変なことがあっても、モチベーションそのものはぜんぜん変わらないんですよ。自分は何時間同じことをやっても苦じゃないし、競技者であるという意識、試合に向けて頑張っていく気持ちは今も変わらない」

 そして、今日まで教え続けてきた。

 その年月の間に、フィギュアスケートの認知度や人気や注目度はさらに高まっていった。恩田もそれを認める。
「そうですよね。昔はフィギュアスケートは深夜に放送するくらいのものだったのに、ゴールデンタイムに放送されるのも珍しくないのが今ですよね」

 ただ、「現場」に立つ恩田には、その変化の実感はあまり感じられないと言う。
「ソチ五輪が終わって、スケートをやる子が増えたかと言えば、そんなことはない。バンクーバーの後は増えた実感はありました」

――その背景にあるのは?

 すると、こう答えた。
「やはり、スケートはお金がかかるということもあるのではないでしょうか。自分も現役だった頃、よく続けてこられたなと思います。『うちは賞金のお金でしかやっていけないから。底がついたらおしまい』と言われていましたから。
 ですから、子供にやらせたいという方が来られたときは、最初にお金の話をして確認します。もっとそういう面でも、現場が取り組みやすい環境になればいいのにな、という気持ちになることもあります」

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著者プロフィール

1967年、東京都生まれ。フリーライター・編集者。大学を卒業後、出版社勤務を経てフリーライターに。その後「Number」の編集に10年携わり、再びフリーに。五輪競技を中心に執筆を続け、夏季は'04年アテネ、'08年北京、'12年ロンドン、冬季は'02年ソルトレイクシティ、'06年トリノ、'10年バンクーバー、'14年ソチと現地で取材にあたる。著書に『高齢者は社会資源だ』(ハリウコミュニケーションズ)『フライングガールズ−高梨沙羅と女子ジャンプの挑戦−』(文藝春秋)など。7月に『メダリストに学ぶ 前人未到の結果を出す力』(クロスメディア・パブリッシング)を刊行。

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