クラブと共に、佐々木美行の新たな夢 フィギュアスケート育成の現場から(9)

松原孝臣

20年を超えるクラブの歴史の中で……

子供たちにスケートを教え続けてきた佐々木と倉敷FSCの歴史は、アルバムにも刻まれている 【積紫乃】

「どこかのリンクに合宿に出かけていっても、なかなか練習する時間を確保できないこともありました」

 倉敷フィギュアスケーティングクラブ(倉敷FSC)の監督、佐々木美行は振り返る。

 創立から20年を超え、数々の選手を輩出してきた。実績は、歴史を築いてきたからであり、その歴史の途中では、新興クラブの立場にあったときがあったし、だから、実績のあるクラブに押され、優先順位が低くならざるを得ないときもあった。

 そうした時期を経て、今日がある。

 これまでの道のりは、すべてが順風満帆であったわけではない。
 中でも、クラブにとって大きな危機となった出来事があった。

「あのときは本当に大変でした」
 佐々木は言う。

 現在はヘルスピア倉敷の名称で親しまれているリンクは、以前は「ウェルサンピア倉敷」として知られていた。クラブにとって拠点となっていたリンクの存続危機がクローズアップされたのは、2008年のことだった。
 施設を所有していた年金・健康保険福祉施設整理機構が売却を進めたが、結局入札者は現れず、そのままなら閉鎖されると決まったときだ。

リンク閉鎖の危機に関係者が団結

 岡山県スケート連盟が一時的に借り受けるなどして、その年の秋から09年の4月まで限定的に続けることができるようになったが、その後の見通しは立たないままだった。
 リンクがなくなれば、クラブの存続もまた、困難を極めただろう。存続しても、活動は大幅に制限されることになったろう。

 このとき、選手や保護者ら関係者が団体を結成。各所に働きかけるなどして、存続を訴えた。署名活動も実施し、6月には約8万7000人分の署名を提出した。

 その頃を知る関係者がこう語っていたのを覚えている。
「皆さんの一致団結した熱さ、思いの強さが分かりましたし、とても伝わってきました。いいクラブだなと思いました」

 それでも、容易に見通しは立たずに時間は過ぎていった。
 だが、事態は一変した。09年2月、学校法人加計学園が落札したのだ。そしてリンクの存続は決まった。

 その頃を、佐々木はこう語る。
「たくさんの署名が集まりました。高橋大輔君のファンの方々も来てくださり、応援してくださって、あれだけの署名が集まったんだと思いますし、だから存続できたんですね」

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著者プロフィール

1967年、東京都生まれ。フリーライター・編集者。大学を卒業後、出版社勤務を経てフリーライターに。その後「Number」の編集に10年携わり、再びフリーに。五輪競技を中心に執筆を続け、夏季は'04年アテネ、'08年北京、'12年ロンドン、冬季は'02年ソルトレイクシティ、'06年トリノ、'10年バンクーバー、'14年ソチと現地で取材にあたる。著書に『高齢者は社会資源だ』(ハリウコミュニケーションズ)『フライングガールズ−高梨沙羅と女子ジャンプの挑戦−』(文藝春秋)など。7月に『メダリストに学ぶ 前人未到の結果を出す力』(クロスメディア・パブリッシング)を刊行。

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