倉敷で歴史を刻む佐々木美行  フィギュアスケート育成の現場から(7)

松原孝臣

グランドオープンを迎えた「ヘルスピア倉敷」

昨年12月6日にグランドオープンを迎えた「ヘルスピア倉敷」 【積紫乃】

 たくさんの人たちが滑っている。
 おそらくはスケートを楽しみに来たであろう、子どもにスケートを教えたい親子がいれば、選手として未来を夢見る子どもが熱心に滑っている。

 熱気あふれるリンクは、どこか真新しさを感じさせる。それもそのはずだ。昨年12月6日、通年化の作業が終わって、「ヘルスピア倉敷」はグランドオープンを迎えたばかりだ。セレモニーには、このリンクでスケートを始め、練習に励んだ高橋大輔らも駆けつけたという。

 倉敷市内中心部から車で約15分ほど、周囲は静かな中、自動扉を抜ければ、そこには活気があふれている。

「夢の一つがかないました。20年以上、願っていたことですから」

 佐々木美行は笑顔を見せる。

 佐々木は、ここを拠点とする「倉敷フィギュアスケーティングクラブ(倉敷FSC)」の監督として、クラブが設立された1993年以来、クラブを率いてきた。

 これまで、多くの選手が育っていった。高橋をはじめ、アイスダンスで活躍する平井絵己(大阪スケート倶楽部)、2011年の世界ジュニア選手権で銀メダルを獲得した田中刑事(倉敷芸術科学大)、2人の姉とともにスケートに励み全日本ジュニア、全日本選手権に出場している友滝佳子(倉敷芸術科学大)らの名前が並ぶ。
 20年を超える歴史を刻み、今日では全国でも有数の存在となった倉敷FSCだが、そのスタートは、「すべて一から。いえ、まさにゼロからと言うのが正しいかもしれませんね」と、佐々木は振り返る。

高橋大輔が小学生のときのまさかの出来事

「大学に入る前は遊びくらいで」
と言う佐々木のフィギュアスケートとのかかわりは、大学生になってから、結びつきを強めていった。

 岡山大学に入学すると、「経験者の少ないものをやりたい」とスケート部に入部する。そして選手として、国体やインカレに出場を果たした。

「大学でいろいろ経験させていただいた分、いずれはフィギュアスケートに対して恩返しをしなければ、という思いがありました」

 その機会となったのが、92年、ヘスルピア倉敷の前身である「サンピア倉敷」がオープンしたことだった。佐々木は誘われてスケート教室のコーチとなり、その翌年、クラブが設立された。

 とはいえ、身近にクラブの運営や形態のモデルがあったわけではない。

「クラブだから名簿を作らないといけないよね、会計もはっきりしておかないといけない、リンクを貸し切る費用は月々の精算にしよう、クラブの運営費は年間で集めよう。やらないと困ることが見つかったら、そこを進める、そんな具合でした」

 そして、「試行錯誤と言えば」と続けながら、このようなエピソードを挙げた。高橋が小学生のときに出場した大会でのことだ。

「広島で行なわれた大会でした。あれは何年生のときだったかなあ。小学生であったのは間違いないのですが」

 そのショートプログラムで、「まさか」と思うほど低い点数がつけられることになった。その理由を知り、愕然(がくぜん)とした。

「要は、やってはいけないことをやったり、やらないといけないことを入れていなかったりというところで、大幅に減点されたんですね。プロの先生の方に作っていただいたプログラムでした。でも、古いルールにのっとっていたために起きたことだったんです。

 ただ任せきりにするのではなく、自分たちもしっかりルールを身につけないといけない、勉強しなければならないと実感したときでした。また、そういうところにもクラブの組織や力というものが表れるんだと思ったことも覚えています」

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著者プロフィール

1967年、東京都生まれ。フリーライター・編集者。大学を卒業後、出版社勤務を経てフリーライターに。その後「Number」の編集に10年携わり、再びフリーに。五輪競技を中心に執筆を続け、夏季は'04年アテネ、'08年北京、'12年ロンドン、冬季は'02年ソルトレイクシティ、'06年トリノ、'10年バンクーバー、'14年ソチと現地で取材にあたる。著書に『高齢者は社会資源だ』(ハリウコミュニケーションズ)『フライングガールズ−高梨沙羅と女子ジャンプの挑戦−』(文藝春秋)など。7月に『メダリストに学ぶ 前人未到の結果を出す力』(クロスメディア・パブリッシング)を刊行。

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