日本代表&五輪代表の重要な選手供給源に── STVVがこの6年半で果たしてきたミッション

中田徹

2018年にSTVVに加入した冨安(左)と遠藤(右)。1期生としてベルギーでファーストステップを踏んだ彼らは、今やプレミアリーグのメガクラブで主力を担う 【Photo by Vincent Van Doornick/Isosport/MB Media/Getty Images】

 2017年11月に『DMMグループ』がシント=トロイデン(STVV)の経営権を取得してから、間もなく丸7年が経過する。これまで、大きく分けて冨安健洋、遠藤航、鎌田大地らの1期生、鈴木優磨、シュミット・ダニエル、橋岡大樹らの2期生、鈴木彩艶、伊藤涼太郎、藤田譲瑠チマらの3期生が在籍してきたが、それぞれどんな状態でSTVVに加入し、そしてどのように卒業していったのか。STVVが掲げる「日本人選手のステップアップの場となる」というミッションが、どの程度達成されてきたのかを、オランダ在住でベルギーリーグにも詳しいサッカーライターの中田徹氏が検証する。

プロジェクト第1号が冨安は偶然ではない

 鎌田大地が頭からタオルを被ってベンチで泣いていた。2018-19ベルギーリーグのレギュラーシーズン最終戦、満員に埋まったホーム、スタイエン・スタディオンでシント=トロイデン(以下STVV)はヘントに0-2で完敗して7位に終わり、上位6チームによる「プレーオフ1」進出を逸した。

 リーグ優勝、チャンピオンズリーグ(CL)およびヨーロッパリーグ(EL)の出場権を懸けた「プレーオフ1」は、全試合がトップゲーム。一方、「プレーオフ2」は注目度も低く消化試合の雰囲気が漂っている。逃した魚は大きい――。選手たちの失望は深かった。それでも日本人選手を6名も抱えた小クラブのSTVVが、シーズンの最後まで健闘し「プレーオフ1」圏内で戦ったことは、「日本人選手はベルギーリーグに合う」というトレンドを作った。

 18年1月に冨安健洋がSTVVに加入するまで、ベルギー1部リーグでプレーした日本人選手はたった8人。それが今や49人まで膨らんだ。この間、わずか6年の出来事だ。

  なかでもDF冨安、MF遠藤航、鎌田大地は、チームの中心メンバーとしてSTVVの順位を引き上げる原動力となり、在籍1シーズンでベルギーリーグを卒業。日本人はベルギーリーグで戦力としても、投資としても好銘柄と認知された。

 STVV加入に際し、この3人は異なるバックグラウンドを持っていた。当時19歳の冨安は未来のホープ。25歳の遠藤はJリーグでの実績十分で、18年ロシア・ワールドカップ(W杯)の日本代表メンバーに選ばれた実力派だが、代表でレギュラーに定着するにはもう一皮剥ける必要があった。一方で22歳の鎌田はフランクフルトでまったく試合に絡めず、欧州でキャリアを築くためにも自信と信頼を欲していた。 

 『DMM.com』のSTVVプロジェクト第1号の日本人選手が、センターバックの冨安だったのは偶然ではない。彼らは日本人経営のクラブを欧州に持つことにより、日本サッカーに貢献したいという大志を抱いていた。そして「日本にはゴールキーパー、センターバック、ストライカーの人材が足りていない」と解析し、「最初はセンターバックだ」ということで、17年のU-20W杯で活躍した冨安に白羽の矢を立てたのだ。

 冨安がベルギーに降り立ったとき、STVVは旧経営(ベルギー人)と新経営(日本人)の移行期だった。だからスタッフの中には日本人主導の運営や、日本人選手獲得に対して疑いの目を向ける者もいた。最初の半年、冨安はリザーブチームでプレーしたが、彼がミスをすると旧経営者が「だから日本人選手を獲ってもダメなんだ」と嫌味を言い、ピッチの上ではチームメイトのミスを押し付けられて、「トミ!」と叱責されたという。

 しかし18-19シーズン開幕戦でピッチに立ったのは冨安だった。ベテランのセンターバック、ジョルジ・テイシェイラにリードされながら堅実にプレーして、デビューマッチを0-0の完封で飾った。翌2節・対ヘンク戦(1-1)の地元紙の評価は低かったが、STVV内では「この試合で一番良かったのは冨安だった」と高評価を得たという。のちにクラブ関係者は「この評価の差には、メディアの日本人選手に対する偏見があったのでは」と語っている。

 ビザ取得が遅れた遠藤は第2節がデビューマッチに。69分からピッチに入った彼は2分後、見事に同点ゴールを決めた。攻撃的MFとしてプレーした遠藤は試合後、こう語っている。

「日本ではセンターバック、サイドバック、ボランチをやった守備的な選手でした。ベルギーに来てから、監督は自分のボールを付けてそのまま前に出ていくところを見てくれていて、練習でも2シャドーのポジションでやることが多い。日本でも監督が代わるたびにポジションも変わりました。僕自身、ポジションを変わることに免疫はあるのでポジティブにやっています」

 STVVの遠藤は試合によって6番(アンカー)や8番(リンクマン)で出たり、試合中にポジションを移したり、あえて“ゲームチェンジャー”として途中から出場したりした。中盤で攻守に幅広くプレーし、さらにピッチの中で孤立した状態でも対面の選手を剥がす術を身に付けたことで、日に日にスケールアップしていった。

 こうして冨安と遠藤は、森保一監督率いる日本代表のメンバーに定着した。19年1月のアジアカップでは、「遠藤の攻撃力がアップしている」と日本のファンを驚かせた。

飛躍の序章となった1期生たちのSTVV時代

鎌田もまた、欧州でキャリアを築く上での自信をSTVVで手に入れた。1年で卒業後、フランクフルト、ラツィオで実績を残し、来季からプレミアリーグに参戦する 【 Photo by Nico Vereecken / Photonews via Getty Images】

 18年夏の移籍市場の締め切り寸前に、フランクフルトからSTVVに貸し出されることになった鎌田も、ヘントとのデビューマッチ(第7節)で活躍し、決勝ゴールを奪った。トップ下ながら、まるで2トップの一角のように高めにポジションを取った鎌田は、この18-19シーズンに公式戦で16ゴールを荒稼ぎした。

 彼の非凡さは相手ペナルティエリアの中で、DFとGKの動きを見据えて逆手に取る冷静な動きに垣間見えた。

「これが逆にドイツでは『プレーが遅い』とか、僕の感じが弱々しく見えたり、違う捉え方をされていた。今はうまくいっているので、そういう風に(冷静と)見られるのかもしれませんが、僕はボールの失い方が悪かったり、弱々しいところがあるので、もっと改善できる部分があると思います。

 去年、(ドイツで)出られなかったのは、素直に実力不足だと思います。フランクフルトはチームとしても良く、僕もすごくいい選手をいっぱい見てきました」

 このときばかりでなく、鎌田のコメントは常に自分に矢印を向けて失敗・弱さを一旦認めて受け入れた上で、「絶対に4大リーグに戻りたい」という意欲に満ちていた。そして、ヘントとの最終戦に負けて泣いた4日後、彼は日本代表で初キャップを記録した。

 冨安、遠藤、鎌田の活躍に、STVVの好調が重なった。その秋口にシント=トロイデンの街を訪れると、「もっと日本人選手を獲得してもいい。むしろ日本人以外の補強がうまくいってない」という声を聞くまでになっていた。鎌田に至っては「なんで買い取りオプションを契約に入れてなかったんだ?」と言われるほど。移籍市場が閉まる直前の交渉だったので、オプションどころの話ではなかったらしい。

 冨安、遠藤、鎌田は1シーズンでSTVVを卒業し、それぞれ別のルートでCLの舞台まで駆け上がった。22年W杯、ラウンド16の日本対クロアチア戦(延長PK戦の末に日本は敗退)を中継したベルギーのテレビ局のアナウンサーは、「冨安、遠藤、鎌田が出ています。この試合をSTVVの幹部は誇らしげに見ていることでしょう」と実況した。

 “第1期”のSTVV時代は、彼らにとってその後の飛躍の序章だった。

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著者プロフィール

1966年生まれ。転勤族だったため、住む先々の土地でサッカーを楽しむことが基本姿勢。86年ワールドカップ(W杯)メキシコ大会を23試合観戦したことでサッカー観を養い、市井(しせい)の立場から“日常の中のサッカー”を語り続けている。W杯やユーロ(欧州選手権)をはじめオランダリーグ、ベルギーリーグ、ドイツ・ブンデスリーガなどを現地取材、リポートしている

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