西浦颯大が味わった術後の“生き地獄”と何度も読み返した“おかんの手紙”
元気にグラウンドを駆けていた男がベッドの上で過ごす日々を強いられた 【写真は共同】
中学、高校と輝かしい経歴を歩み、オリックスではあのイチロー以来、10代でホームランを記録するなど華々しい野球人生を歩んでいた。
そんな“野球に愛された男”に突然の病魔が襲い掛かる……
国の指定難病「特発性大腿骨頭壊死症」を患い、医師から告げられたのは「復帰は8割強、無理」という非情通告……
懸命にリハビリに励むも、復帰は叶わず、22歳の若さで球界を去ることに……
引退を決めた後輩に、山本由伸、宗佑磨がヒーローインタビューで投げ掛けた言葉とは?
中嶋聡監督が取った意外な行動とは? そして西浦が引退試合で許された「たった1球の物語」とは――?
西浦颯大著『もう一回野球させてください神様』から、一部抜粋して公開します。
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2020年12月に1回目の手術
それに、人工股関節を入れてから万が一、脱臼してしまったら大変なことになるそうなので、プロ野球選手のような激しい動きには耐えられない。つまり人工股関節を入れる手術を選択した時点で、プロ野球選手への復帰の可能性が「0%」になってしまいます。
それ以外の方法の1つに骨切り術という手術もあって、それは大腿骨頭を切って上部を回転させ、壊死している部分に荷重がかからず、正常部に荷重がかかるようにする手術なのですが、その手術だと、足の長さが変わってしまったり、もともと骨についていた筋肉や筋をはがしたりすることになるので、術後のダメージがあまりにも大きい。
だから僕の場合は、自分の骨盤を削って、それを粉々にし、大腿骨頭の壊死部分をくりぬいてそこに移植する「大腿骨頭搔爬骨移植術」という方法で手術を行うことになりました。
それが、もっとも選手に戻れる可能性のある手術だということだったので。京大病院の先生も、できる限りのことをしてくれると言ってくれました。
2020年12月21日に1回目、まず左足の「大腿骨頭搔爬骨移植術」を行いました。オリックスに入団する前に、手首と足首の手術をしたことがあったので、手術は初めてではありませんし、特に怖さはありませんでした。
手術室までは自分の足で普通に歩いていって、自分で手術台に乗りました。そのあと背中と腕から麻酔を入れて、そこで記憶は途切れるんですが、あとで看護師さんに聞いたところによると、手術中に僕は一度、いきなりガバッと飛び起きて、お医者さんや看護師さんが慌てて押さえたそうです。僕はまったく記憶にないんですけど。
生き地獄
手術後の最初の記憶は、病院の廊下の天井でした。手術が終わって自分の病室に運ばれる際に、手術室を出た瞬間に目が覚めて、廊下の天井がボヤーッと視界を流れていきました。
と同時に、ものすごい寒気に襲われました。手術室がめちゃくちゃ寒かったからだと思うんですけど、ずっとブルブルと震えが止まらなくて。自分の部屋に着いても、上半身を脱がされて心電図のケーブルのようなものをペタペタ貼られたり、注射をされたりしていたんですが、とにかく寒かったので「早く着せてください」と必死で訴えました。それが術後の第一声でした。
そしてなにより、痛みがエグかった。左股関節にガンガン釘を打ち込まれているような激痛が続きました。まるで股関節に心臓がついているみたいに、ずっとドクンドクンと脈を打っている感覚。初めて味わう地獄の痛みでした。
しかも絶対に足を動かしてはいけないので、ベッドの上で下半身を固定されて、寝返りも打てない。その状態で10日間も過ごすのは本当につらかったです。
あまりの激痛に耐えられず痛み止めを増やしてもらったので、2日目以降、痛みは少しマシになったんですが、精神的に一番苦痛だったのが、トイレでした。
まったく動けないので、トイレの時もベッドの上で寝たまま、看護師さんに処置してもらわないといけない。それが本当に一番嫌でしたね。しかもよりによって、同年代ぐらいの若い女性の看護師さんが来てくれるので、超恥ずかしいんですよ。できれば男の人にして欲しかったです。
1ヶ月ほどはベッドに寝たままの生活が続き、1ヶ月後にやっと車椅子に乗ることができました。そこから徐々にリハビリを始めました。まずは手すりにつかまって立ち上がるところから。
そして2月3日、2回目の手術、右の「大腿骨頭搔爬骨移植術」を行いました。1回目の手術で痛みを知ってしまったので、2回目の手術前は怖かったですね。あの痛みが待っているのかと思うと……。
手術前には、とりあえず麻酔の量を増やしてくださいとお願いしました。だって手術が終わってすぐに目覚めたくないじゃないですか。だから2回目は、ちゃんと自分の病室で目が覚めました。
痛み止めも、早くから多めに打ってもらっていたので、痛みは1回目の時よりはマシだったんですけど、やっぱり動けないというのはつらかったですね。
しかも当時はコロナ禍で、誰かがお見舞いに来てくれても面会は5〜10分だけ。だから退屈で退屈で……。NetflixやYouTubeを見たり、ゲームをしたりして、なんとか暇をつぶしていました。
唯一の楽しみは、車椅子で病院の売店に行くことでした。そこでカップラーメンを買ったり。本当にそれぐらいでしたね。他にできることがなにもなかったので。