西浦颯大『もう一回野球させてください神様』

西浦颯大の人生を変えた甲子園での満塁ホームラン 大会後の変化と馬淵史郎監督からの教え

西浦颯大

高校2年夏の甲子園で満塁本塁打を放った西浦颯大は雄叫びを上げながらダイヤモンドを一周した 【写真は共同】

小学6年生でソフトバンクジュニアに選出されるなどセンス抜群の野球少年だった西浦颯大。
中学、高校と輝かしい経歴を歩み、オリックスではあのイチロー以来、10代でホームランを記録するなど華々しい野球人生を歩んでいた。

そんな“野球に愛された男”に突然の病魔が襲い掛かる……
国の指定難病「特発性大腿骨頭壊死症」を患い、医師から告げられたのは「復帰は8割強、無理」という非情通告……
懸命にリハビリに励むも、復帰は叶わず、22歳の若さで球界を去ることに……

引退を決めた後輩に、山本由伸、宗佑磨がヒーローインタビューで投げ掛けた言葉とは? 
中嶋聡監督が取った意外な行動とは? そして西浦が引退試合で許された「たった1球の物語」とは――?

西浦颯大著『もう一回野球させてください神様』から、一部抜粋して公開します。

2年夏の甲子園での会心の当たり

 四度甲子園に出場した中で、2年夏が一番勝ち上がり、ベスト4に進出しました。

 個人的にも、甲子園の中では2年夏が一番調子がよくて、結構打つことができました。甲子園初出場だった2年春は完全に浮き足立って、打ち方を忘れるぐらい緊張しましたけど、2年夏は二度目だったので、甲子園にもちょっと慣れて、普段通りの自分の打ち方ができました。4試合を戦って、打撃成績は14打数6安打5打点、打率4割2分8厘でした。

 僕の人生、なにがプロ入りにつながったかと聞かれたら、「2年夏の甲子園で打った満塁ホームラン」と答えます。実際、高3秋のドラフトで指名され、プロ入りが決まってから、何度も聞かれ、何度もそう答えてきました。

 2年夏の甲子園は、初戦となった2回戦で鳥取県代表の境高校に7 -2で勝利し、3回戦で沖縄県代表の嘉手納高校と対戦しました。僕は3番・ファーストで先発出場しました。
 高校時代は基本的に外野手だったんですが、あの夏だけは、ファーストを守っていた人が怪我をしてしまったので、高知大会前に「西浦、行けるか?」と言われて、ファーストとして出場しました。小学生の時にショートなど内野は守っていましたが、ファーストは一度もやったことがなかった。でも、あいつならなんでもできそうだと思ってもらえていたんじゃないですかね。

 嘉手納高校戦では3回以降、着々と得点を積み重ねることができ、6-0とリードして、6回表・無死満塁の場面で打席が回ってきました。
 僕はあの時、打席に向かう前にベンチで、「次、ホームラン打ってくるっすわー」と言っていたんです。根拠はなかったんですけど、ただそんな気がして。直感というんですかね。
 その時マウンドにいた嘉手納の左投手・仲井間光亮さんは速球派投手だったので、ストレートにヤマを張っていました。初球は高めのスライダーを見逃してボール。満塁でしたし、「次は絶対にまっすぐが来る」と確信して、めちゃめちゃ狙っていました。そして2球目。

「きた!」

 低めにきた126キロのストレートを思い切り振り抜くと、打球はバックスクリーン右横のスタンドに吸い込まれていきました。

 打った瞬間はバットがボールに当たった感触がありませんでした。初めての感覚でした。これはみんな言うんですけど、本当に完璧なホームランって、感触がないんです。だから最初は、「入ったんちゃうかな?」とは思いましたけど、打球がどこに行ったかわからなくて、めちゃくちゃ全力疾走していました。
 2塁を回る手前ぐらいで、観客の歓声と、審判のジェスチャーで、ホームランだとわかりました。球場中の大歓声が体中にビリビリ響いて……あの感覚は鮮明に覚えています。

大会後に感じた満塁ホームランの意味

 あれはプロ生活を含めても、人生一の当たりだったかもしれません。プロ第一号もよかったですけどね。あれも完璧でした。

 甲子園での満塁ホームランはめちゃくちゃ気持ちがよかったし、うれしかったです。ダイヤモンドを回りながら、「っしゃー!」と叫んでいましたね。みんな叫んでいるから、「とりあえず叫んどこかな」みたいなノリでしたけど、今になって改めて見返すとちょっと恥ずかしいです(苦笑)。
 結果的に、7回以降に5点を奪われて追い上げられたので、あの満塁弾で大量得点を奪えていたことは大きかったと思います。

 準々決勝では徳島県代表の鳴門と高校に3 -0で勝利しましたが、準決勝で、その大会で優勝することになる、栃木県代表の作新学院高校に2 -10で敗れました。
 あの時の作新学院のエースは、現在、埼玉西武ライオンズで活躍されている今井達也さん。すごかったですよ。とにかくまっすぐが速くて、うなりをあげていました。あんなボール、見たことがなかったです。

 でも1本ヒットを打ちました。あまりに速かったんで、「見えたら打つ」みたいな感覚で振ったら当たって、ライト前にピューンと飛んでいきました。
 今井さんとはプロでも何回も対戦しましたが、結構打ったイメージがあります。プロに入ってからは、高校時代よりも変化球がよくなっていて、特にチェンジアップがいい投手ですね。

 あの夏は準決勝で終わりましたが、嘉手納戦で放った満塁ホームランの意味の大きさを、その後、知ることになりました。
 2年夏の甲子園が終わってから急に、プロのスカウトの人たちが僕を見に来るようになったんです。それに、県大会や四国大会では、敬遠されることも増えました。
 あのホームランがなかったら、注目されることはなかったと思います。プロにも、行けたとしても育成契約だったりしたんじゃないでしょうか。

 本当に、あのホームランが、僕の人生を変えたと思っています。

 思い返せば、1年春にレギュラーをつかむきっかけになったのもホームランでしたし、プロ入りのきっかけを作ってくれたのもホームラン。
 高校時代は結構ホームランを打っていました。高校通算は28本。〝強く振る〞ということは常に意識していました。ホームランはあくまでヒットの延長で、狙ってはいませんでしたが、ホームランを打ちたい気持ちは常にありました。
 だってホームランが一番目立つじゃないですか。野球では、目立ちたがり屋だったんで。

 プロに入ってから、そこに関しては牙を抜かれましたけどね。ラオウ(杉本裕太郎)さんの打撃練習を見て、度肝を抜かれたので。
「こんなに飛ばせるわけねー」
 プロの世界で、ホームランで勝負するなんて到底無理。他のところで勝負しようと決心した瞬間でした。

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