連載:キズナ〜選手と大切な人との物語〜

中学日本一を実現した親子鷹 小4から「別格」だった富樫勇樹

小永吉陽子

前編・よく話す父と無口な息子が実現した中学日本一

一緒に写った写真がほとんどないという富樫親子。それだけに貴重な1枚 【写真提供:富樫家】

 富樫勇樹はBリーグ千葉ジェッツのエースで司令塔。167センチの身長ながら、抜群のスピードと感性あふれるプレーで魅了する日本代表選手。父の英樹は新潟県新発田市立本丸中学校を2度の全国制覇に導き、開志国際高校のコーチに転じてからも、創部5年目の2018年にはインターハイを制したバスケットボール指導者。しかもこの親子は、勇樹が中3でエースのときに、地元の新潟で開催された全国中学校大会(以下全中)で初優勝を遂げている。

「息子が中3の時に地元で全中があるなんて奇跡の巡り合わせですよね」と父が言えば、息子も「今思えば、親子で地元の全中で日本一になるってすごいことですよね」と振り返る。親子で日本一を実現し、いまなお指導者として、選手として第一線を走り続ける。それが富樫英樹、勇樹親子だ。

 当たり前のことだが、富樫勇樹が有名になる前から、父は指導者としての道を歩み、中学界では名の知れた存在だった。しかしその知名度は息子の成長によって一段と輝くことになる。「今では富樫先生ではなく『勇樹君のお父さん』ですからね」と笑う。

 父・英樹は本丸中に16年間赴任し、全中に10回出場。そのうち優勝2回(2008、10年)にベスト4が3回(2000、06、07年)という輝かしい成績を収め、U16代表ヘッドコーチとして11年にはアジア3位へと導いていることから、バスケ界の報道にはよく登場していた。そして、勇樹が本丸中に入学すると、取材するメディアは親子で正反対の性格に驚かされるのである。

 父はメディアに対して、記事になるようなエピソードをたくさん紹介してくれる多弁で情熱的なコーチ。しかし、息子の勇樹は高校を卒業するまでは無口でインタビュアー泣かせの選手だった。日常生活では友人が多く、信頼が厚いエース。しかし人前では思春期ゆえに人見知りが激しく、口数が少ない。このことは、当時の勇樹少年を知る者であれば、誰もが語るエピソードだ。
 
 ともに日本一を志しながらも、ここまで似つかない親子がいるものなのか――と、取材のたびに感じたものだが、勇樹が日本を代表する選手へ成長する過程を振り返ると、親子で真逆の性格であることも、常にバスケがある環境だからこそ伸びたことも十分に理解できる。勇樹少年はどのように育ったのか、親子の回想をじっくりと聞いてみることにしよう。

バスケ部には「息子」がたくさんいた

現在は開志国際高校で指導にあたる父、英樹氏。県内でライバルの多い中、全国の強豪に育て上げた 【バスケットボールキング/新井賢一】

 富樫コーチには忘れられない敗北がある。1996年に豊栄市立木崎中を率いて初の全中決勝に進出しているが、同じ新潟の鳥屋野中に3点差で敗れたライバル決戦だ。

 その年の木崎中は、のちに新潟商業高校でインターハイを制した190センチ超えのダブルエース、勝山祐樹と藤田浩二を擁して全国有数のチームへと台頭したが、その過程は苦労の連続だった。バスケが盛んではない学区に赴任した富樫コーチが、「偶然だった」という有望株2人との出会いから始まり、野球部への入部希望者を口説き落としてはバスケ部に勧誘して育て上げた。県大会と北信越大会では鳥屋野に勝利していたからこそ、最後の全中決勝で敗れた悔しさはひとしおだった。

 しかし、敗北を喫した後、当時から師として仰ぐ名将、中村和雄(元日本女子代表HC、秋田ノーザンハピネッツHC他)氏にこう言われたという。

「神様がまだ日本一になるのは早いと言っているんだ」

 当時から富樫コーチは、今と変わらず、リバウンドやディフェンスを徹底し、基本を大切にするコーチだった。ただ――指導スタイルとしては「当時はよく怒鳴っていました。私が『カラスは白』と言えば、選手にも『白』と言わせるような指導者で、まさに"やらせる"練習をしていました。選手が大舞台で力を発揮することができなかったのは、自分の指導力不足です」

 全中決勝で敗れた後は、それまでの指導に自問自答しながら、選手とより向き合う日々を送った。富樫コーチにとっては、バスケ部の選手たちも我が子同然、いや実の子よりも接する時間が長かったのだ。父はこう回想する。

「毎日毎日、学校で授業をして、放課後になれば日本一を目指して部活動をする。休みとなれば試合や遠征で家にいないでしょう。学校と部活でエネルギーを使い果たしているから、家に帰れば軽く晩酌をして、お風呂に入って9時過ぎには寝てしまうような生活を送っていました。皆さんは私が家でもこんな調子でよく話していると思うようですが、外で全精力を出し尽くしているので、家ではあまりしゃべらない父親だったんです。だから、子供の入学式や卒業式、授業参観に行ったことがなければ、どこかに遊びに行った記憶というのがまったくないですね。子育てに関しては女房に任せっきりでした」

 息子もこう話す。「自分の父親だけど、中学では先生で、部活ではコーチという特殊な環境だったので、そこを区別してうまく接することが中学生の自分にはできなかったです。でも、だからといって仲が悪いというわけではないんですよ。今も昔も父と話さないことが普通と言いますか。だから、子供の頃は人前で話すような性格ではなかったですね」

 ただ、親子の会話が少なくても、バスケが当たり前にある環境は勇樹に大きな影響を及ぼしていた。

 父が自宅でビデオを見て研究すれば、息子は何気なく画面を見つめていたし、父がバスケ関係者を家に招いたり、試合会場でコーチ仲間と談笑していれば、母の恵子さんと一緒に同行していた息子は、大人の会話を自然と耳にする機会が多かったのでは、と父は記憶をたどる。

「人とはほとんど話さない子だったけど、人の話を素直に聞く耳、人の行動を観察する目は小さな頃から持っていましたね」

 そんなバスケ一家で育った勇樹少年がバスケを始めたのも自然なことだった。「両親がバスケをしていたので、3つ上の姉(早紀)がミニバスを始めたとき、気がつけば小1の僕も一緒に入団していました。3つ下の妹(南)も後からバスケを始めていますね」と言うように、富樫家の中心にはいつもバスケがあった。そして父はボールを持った息子に衝撃を受けることになる。

「小1のときから『うまい!』と思っていけど、小4では『別格』になっていました。そもそも子供の頃の写真を見返すと、2歳の頃にはおもちゃのリングに向かってシュートを打つ姿がワンハンドのフォームだったのには驚きましたね。幼い頃から感性がズバ抜けていました」

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著者プロフィール

小永吉陽子

スポーツライター。『月刊バスケットボール』『HOOP』編集部を経て、2002年よりフリーランスの記者となる。日本代表・トップリーグ・高校生・中学生などオールジャンルにわたってバスケットボールの現場を駆け回り、取材、執筆、本作りまでを手掛ける。

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