富士通レッドウェーブの“顔”町田瑠唯 野球好き少女のバスケットとの出会い
前編・長男は野球、長女はバレー、そして次女はバスケット
富士通レッドウェーブの“顔”でもあり、日本代表でも活躍を見せる町田 【バスケットボールキング/兼子愼一郎】
もちろん、父親自身がミニバスケチームのコーチだったことは、どこの家にも共通することではないが、父親にしてみれば、それも監督から半ば強引に引き込まれてコーチを引き受けただけ。
その後、娘が中学校に進学してからも指導は続いたが、やはりこの時も女子バスケット部の顧問の先生に乞われたことが理由。週に1度、仕事の合間を縫って教える程度だった。
決して英才教育を施したわけではないが、ただほんのちょっと、バスケットが楽しいと思ってくれたらと、当時の女子中学生ではあまりやらないようなプレーを教えた。それがのちの町田瑠唯(富士通レッドウェーブ)を生むのである。
町田がバスケットを始めたのは小学2年生の時。幼なじみの高田汐織さん(元富士通/現・日立ハイテククーガーズ・サポートスタッフ)と、ミニバスの指導に当たっていた担任の畠山順先生の2人に誘われたことがきっかけだ。それまでの町田はというと、野球をやっていた。
父・茂典さんが振り返る。
「私はクラブチームでバスケットをやっていました。だから3人の子どもたちにはバスケットをやってほしいと思っていたんです。でも、どの子に対しても『バスケットをやれば?』とは言わなかった。そうしたら長男は野球、長女はバレーボール。瑠唯も小さい時は兄に付いてずっと野球をしていたんです」
「お兄ちゃん子だった」という町田。だが、当時は低学年だったため兄の野球チームに正式な入部ができなかった。それでもキャッチボールやトスバッティングに嬉々(きき)として取り組んでいたと振り返る。
後に6年連続優勝を果たすことになる学年別マラソン大会。小学校1年生の時には「優勝したら野球のスパイクを買ってほしい」とねだったほど、当時は野球に熱中する少女だった。
そんな町田が2年生の時、先に挙げた2人に誘われ、帰宅後に「バスケットをやってみようかな」と口にした。待ち望んでいた「子どもがバスケットをやってくれる」夢が実現しようとする瞬間を茂典さんは逃さなかった。すぐに町田を車に乗せ、スポーツショップに駆け込んだという。
「こういう時は形から入ったほうがいいでしょう?Tシャツ、短パン、バッシュ……全部そろえましたよ」と茂典さん。
この時、たまたま外出していた母・ルミさんは帰宅後にその話を聞き「お父さんらしいな」というのと同時に、こうも思ったという。
「父親ってすぐに事実を作りたがるというか(笑)、私は様子見でした。だって最初、畠山先生だけに誘われた時は、瑠唯は断っているんですよ。その後で汐織も誘ってくれて。それでようやく『やろうかな』と。だから『やる気あるのかなぁ?』って思ってしまいますよね」
父性と母性の違いといえばそれまでかもしれない。性格もどちらかといえば人見知りの父に対して、母は陽気で社交的。そんな両親を町田はある共通点で結びつける。
「2人とも根は熱いし、負けず嫌いなんです」
もちろん、そのDNAはしっかりと娘に受け継がれているのだが。
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小学生の時は「お父さんというよりコーチ」のイメージ
町田はミニバスの頃から現在もスピードを武器とする 【バスケットボールキング/兼子愼一郎】
「小学生のときは“お父さん”というより“コーチ”のイメージが強かったです。家に帰ってもバスケットの話だし、体育館から帰るときも一緒で。その日の練習がダメだったら、コンビニで車を停めて説教が始まる。正直、あの頃は嫌でした。家に帰っても緊張感があって、怖いイメージが付いていましたね」
それでもバスケットを嫌いにならなかったのは、当時、女子の小学生があまりやらないような『レッグスルー』や『ビハインド・ザ・バック・ドリブル』、『ノールックパス』などを、他ならぬ父が教えてくれたから。今の町田の原型はここにあると言っていい。
「ちょっと“遊び”が入るようなスキルをお父さんから教えてもらえるのが自分としてもすごく楽しかったんです」
これに対し、茂典さんは「瑠唯は足も速いし、持久力もある。野球をやっていたからか肩も強いんです。6年生になった時はフリースローラインから逆のエンドラインまで片手でボールを投げられるくらいだったから。ただ小さかった。小さいからポイントガードしかないなと思って、ドリブルを取られないよう、練習していたんです」と語る。
北海道の旭川にある町田家のリビングの床、そして壁は今もへこんだまま。それは町田が床でドリブルをし、壁に向かってパスをしていた“遺産”だ。
「でも瑠唯だけじゃないんですよ。お兄ちゃんはそこで素振りをしていたし、お姉ちゃんは壁に向かってアンダーハンドパスをしていたから」(茂典さん)
町田家はさながら“総合体育館”だったわけである。
ただ、そうなってくると母親の気持ちも聞きたくなる。当時の光景を母親はどう見ていたのか。家が“傾く”のを苦々しく思いながら、ここも「お父さんらしい」と見過ごしていたのか。ルミさんはあっけらかんと言う。
「私はそういうのが構わないほうなんです。むしろ子どもたちが練習している姿を見るのが好きでした」
すると、思い出したように茂典さんが入ってきて、夫婦の掛け合いが始まる。
「ただ、兄ちゃんがいくつもの布団を壁に立て掛けて、そこに向かって硬式ボールを投げる練習をしていたけど、たまに暴投をすることもあるんですよ」
「ハハハ、あった、あった。そうすると壁に穴が開くでしょう。さすがにそのときだけは私もへこみましたよね(笑)」とルミさん。
そんな会話の中にも両親と町田だけではない、明るい5人家族像が垣間見える。