猛牛軍団が「10・19」を迎えるまで “子ども”のチームを変化させた助っ人
座談会は終始和やかな雰囲気で行われた 【写真:稲葉訓也】
進行役:中井雅之(フリーアナウンサー)
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いてまえ打線は意外に細かいこともやっていた
現役時代、俊足巧打の二塁手として切り込み隊長を務めた大石(右) 【写真は共同】
加藤「とりあえずやっとけ!」みたいな感じだったな。権藤(博、当時一軍投手コーチ)さんがいてなかったら、その状態があと5、6年は続いてたんちゃうかな。
――細かい指示などはなく、ざっくりとした感じだったんですね。打線は「いてまえ打線」とも呼ばれて豪快な野球が特徴でしたが、首脳陣からの指示も「とりあえず振っとけ!」というようなことでしたか?
大石 いや、そういう感じでもなかったですよ。自由奔放なイメージがあって、爆発力も
ありましたけど、意外と細かいこともやっていた。今の野球と比べると少ないですけど、決め事とかもある程度はありましたよ。
光山 守りでもバントシフトなどはよく使っていましたよね。一塁手がチャージするやつ。攻撃でもバントなどもよくしていたんですけど、仕掛けると失敗するというのはよくありましたよね。(ランナー)一、二塁から送りバントを失敗して、でもその後に3ランとかはよくあった。
――阿波野さん個人を振り返ると、1987年に新人王をとって、いわゆる2年目のジンクスと言われる2年目でしたが?
阿波野 そうですね。僕が入団する前の年は2位で、ドラフトの後に当時の岡本(伊三美)監督が自宅まで来てくれて「投手陣にもう1枚入ってくれたら西武に勝てる!」って言ってくれたのを覚えてます。だから「優勝できるチームなんだ」と希望を持って大阪に来たんです。チームには若いピッチャーたちもいたので「これは強くなる」とも思ったんですけど、結果は最下位……。たくさん投げさせてもらいましたけど、むなしかったですね、最下位というのは……。
――なるほど……。阿波野さん自身は15勝して新人王にもなったのに、チームは最下位。でもそれで監督が仰木(彬)さんに代わった。
阿波野 そうですね。高校や大学は、あんまり監督が代わることがないじゃないですか。でもプロでは1年目で監督が交代した。「チームが弱いと代わるんだ」と、そういう厳しさを実感した1年目ではありましたね。
考えていたのは自分のことだけ
大石 戦力的には(ラルフ・)ブライアントの加入でしょうけど、チームとしてもともと、優勝争いをする力は持っていたんですよ。能力のある選手も多かった。でも、それまでは私生活を含めた部分が、いまいちだったかなっていうのはありますね。
阿波野 私生活ですか……。
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