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近鉄OB同窓会
猛牛軍団が「10・19」を迎えるまで
“子ども”のチームを変化させた助っ人

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座談会は終始和やかな雰囲気で行われた
座談会は終始和やかな雰囲気で行われた【写真:稲葉訓也】

 プロ野球史上最高とも評される「10・19」決戦――。そこにたどり着く前に、彼らはどのような形で戦い、どのような精神状態だったのか。崖っぷちに立たされたとき、チームはどのように立ち振る舞ったのか。不動の核弾頭としていてまえ打線を引っ張った大石大二郎、当時2年目ながらエース左腕として第1試合、第2試合ともに登板した阿波野秀幸、先発・中継ぎとフル回転し台所事情を支えた加藤哲郎、若手捕手として研さんの日々を過ごした光山英和が集結。運命の「10・19」の前夜までを思い出す。(敬称略)


進行役:中井雅之(フリーアナウンサー)

いてまえ打線は意外に細かいこともやっていた

現役時代、俊足巧打の二塁手として切り込み隊長を務めた大石(右)
現役時代、俊足巧打の二塁手として切り込み隊長を務めた大石(右)【写真は共同】

――みなさん、よろしくお願いします。なんかタイムスリップという感じですね! 今から30年、31年前の話をお聞きします。当時の選手、チームの気質はいかがでしたか?


加藤「とりあえずやっとけ!」みたいな感じだったな。権藤(博、当時一軍投手コーチ)さんがいてなかったら、その状態があと5、6年は続いてたんちゃうかな。


――細かい指示などはなく、ざっくりとした感じだったんですね。打線は「いてまえ打線」とも呼ばれて豪快な野球が特徴でしたが、首脳陣からの指示も「とりあえず振っとけ!」というようなことでしたか?


大石 いや、そういう感じでもなかったですよ。自由奔放なイメージがあって、爆発力も

ありましたけど、意外と細かいこともやっていた。今の野球と比べると少ないですけど、決め事とかもある程度はありましたよ。


光山 守りでもバントシフトなどはよく使っていましたよね。一塁手がチャージするやつ。攻撃でもバントなどもよくしていたんですけど、仕掛けると失敗するというのはよくありましたよね。(ランナー)一、二塁から送りバントを失敗して、でもその後に3ランとかはよくあった。


――阿波野さん個人を振り返ると、1987年に新人王をとって、いわゆる2年目のジンクスと言われる2年目でしたが?


阿波野 そうですね。僕が入団する前の年は2位で、ドラフトの後に当時の岡本(伊三美)監督が自宅まで来てくれて「投手陣にもう1枚入ってくれたら西武に勝てる!」って言ってくれたのを覚えてます。だから「優勝できるチームなんだ」と希望を持って大阪に来たんです。チームには若いピッチャーたちもいたので「これは強くなる」とも思ったんですけど、結果は最下位……。たくさん投げさせてもらいましたけど、むなしかったですね、最下位というのは……。


――なるほど……。阿波野さん自身は15勝して新人王にもなったのに、チームは最下位。でもそれで監督が仰木(彬)さんに代わった。


阿波野 そうですね。高校や大学は、あんまり監督が代わることがないじゃないですか。でもプロでは1年目で監督が交代した。「チームが弱いと代わるんだ」と、そういう厳しさを実感した1年目ではありましたね。

考えていたのは自分のことだけ

――そして迎えた88年のシーズン。でも開幕から飛び出したのは西武でした。それを追いかける形となった近鉄は、夏場に大型連勝を重ねて一気に差を詰めた。なぜチームが勝ち出したのでしょうか?


大石 戦力的には(ラルフ・)ブライアントの加入でしょうけど、チームとしてもともと、優勝争いをする力は持っていたんですよ。能力のある選手も多かった。でも、それまでは私生活を含めた部分が、いまいちだったかなっていうのはありますね。


阿波野 私生活ですか……。

ベースボール・タイムズ
ベースボール・タイムズ

プロ野球の”いま”を伝える野球専門誌。年4回『季刊ベースボール・タイムズ』を発行し、現在は『vol.41 2019冬号』が絶賛発売中。毎年2月に増刊号として発行される選手名鑑『プロ野球プレイヤーズファイル』も好評。今年もさらにスケールアップした内容で発行を予定している。

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