連載:未来に輝け! ニッポンのアスリートたち
車いすバスケ界の若武者・赤石竜我 2020年は夢から目標、そして現実へ
子どもの頃は“暴れん坊”
バスケ車を扱い、縦横無尽にコートを駆け回る赤石 【写真:長田洋平/アフロスポーツ】
「いや、僕は日本代表エースの香西宏昭選手や藤本怜央選手のように華のあるプレーヤーではありませんから!」
真顔で謙遜する車いすバスケットボールの若武者が、19歳の赤石竜我だ。
埼玉県さいたま市で生まれ育った赤石は、5歳の時にホプキンス症候群で脊髄を損傷した。
「最初は、ぜんそくの発作で入院していたんです。でも、入院中のある朝、足に力が入らない。立とうとしたら、ヒザがガクッと折れるように転んでしまいました」
別の病院に緊急搬送されて、病気が分かった。以来、車いす生活である。
「子どもの頃は“暴れん坊”でした。車いすで友達と追いかけっこをしたり、ドッジボールをしたり。市内の、普通の小学校でしたけれど、学校にエレベーターがあって移動に困ることはありませんでした。階段を使わなくてはいけないところでは、体の大きな子が担いでくれて」
家族や友達に囲まれて、すくすくと少年時代を送ったのだった。
東京パラ開催決定は「運命かも!?」
車いすバスケとの出会いは小学4年のとき。地元・埼玉ライオンズの見学がスタートラインだった。中学進学後に本格的に競技を始めている 【写真:長田洋平/アフロスポーツ】
自分もバスケがやりたい。そこで地元のクラブ・埼玉ライオンズに見学に出かけた。続けたいと思ったが、その年に東日本大震災があった影響でクラブの練習ができない状態が続き、頓挫した。
再挑戦したのは、中学に進学してから。
「同級生がみんな中学のバスケ部に入部して、『やっぱり自分もバスケがやりたい』と思ったんです」
現在も所属する埼玉ライオンズの扉を、再度たたいた。借り物のバスケ車に乗って、見よう見まねでシュートを試みる。
「入りませんよ、リングにも当たらない」
おぼつかない手つきで何度もシュートを繰り返すと、ついに1本がリングの中に吸い込まれた。
「うれしかったです! 『バスケをやっている友達もみんな、こんな快感を得ているんだな。だからやめられないんだな』って。そこからハマりました」
この年の9月、東京オリンピック・パラリンピック開催が決定する。そのニュースを知って、「これって、運命かも!?」と、胸を躍らせた。
東京で開催されるパラリンピックに出場したい。そこで暴れたい。それは、中学1年生が見る、果てしない夢物語だった。